騎士団に居た頃はさして興味もなかった世界地図をそらで思い浮かべられるようになったのは、いつの頃からだっただろうか。 明確な頃合は判らないが、それは一度死んでスパイとして入り込んだドンの下でギルドを始めた頃だったように記憶している。豪快で大雑把で面倒見が良くて、人使いの荒い――そう、まるで青年みたいなあの男の下では帝国騎士団に属しているなんてことはあっという間にバレたというのに、他の部下たちと寸分違わぬ面倒をかけられたものだ。 やれ、あっちへ行け。次はそっちだと、彼の命で世界中を渡り歩いく毎日。 初めこそ帝国のスパイであるレイヴンを側に置きたくないのだとばかり思っていたのだが、ある時へとへとになってダングレストへ帰ってきたレイヴンにデカイ図体で『世界を見てまわるのは楽しかっただろ』そう笑いかけてきたのだから質が悪い。咄嗟に返す言葉が見つからなくて灰碧の瞳を瞬くばかりのレイヴンに彼は尚も『騎士団ってのは上の奴だけが何でも知ってりゃいいなんてのがいけねぇ。人は世界を自分の目で知るべきだ。なぁ?』刺青の入った顔が、悪戯っぽくウィンクをするものだからレイヴンは冗談のように嫌そうな顔をしたものだ。 そのお陰か今でも地図などなしにレイヴンは行きたい場所への交通経路を瞬時に思い浮かべることができる。だから、リタとジュディスが以前レイヴンがキルタンサスの花を摘んだエフミドの丘へと向かったのだというエステルの話に思わず閉口した。 「…まるで反対方向だ」 世界の北東にあるエフミドの丘と南のノードポリカ。考えるまでもなく世界の端と端。 その上例の商人ギルドを送り届けたノードポリカへは海を真っ直ぐに南に渡るのが正解だ。かの街があるデズエール大陸は海に囲まれている上、ダングレストからは間にユルゾレア大陸と幾つかの島を挟んでいるために陸伝いに進むことが出来ないからだ。手っ取り早いのはバウルを呼んで一気に海も平原も越えていくことだが、エフミドの丘へ既に出発してしまった彼女たちにこちらから連絡を取る術はない。 打つ手なし。 深いため息とともにどうしてこんなに大切なことを忘れていたのかとか、どうしてもっと早く思い出せなかったのかとか。ぐるぐるとまとまらない考えが巡る。もしも、彼女たちが出発する前に花の名前で思い出せていたのなら、今頃解毒剤が完成して青年は目を覚ましていたかもしれないのに。 彼を最も助けたいと願っているはずの自分が最大のチャンスを潰した。 その事実に眩暈がする。足元を助けるためだけに輝く満月の下、レイヴンは形容しがたい苛立ちと絶望と後悔に震える拳をきつく握り締めた。 既に止めるカロルとエステルを振り切ってダングレストを飛び出してから早一昼夜が経っている。海を越えるのには、幸いオルニオンへ向かう幸福の市場の船に同乗させてもらうことに成功した。 凛々の明星にフィエルティア号を下げ渡した後、魔導器が使えなくなったことでカウフマンは未だ実験段階であるマナを原動力に用いた船の使用レポートを提出するという条件で、格安で手に入れたらしい。彼女らしいやり口に苦笑を禁じえないが、それでもそのお陰で今では海を越えるだけで数日はかかる道のりをたったの一日で済ませられたのは有難かった。 オルニオンからノードポリカを目指して歩き続ける。地図上から見れば決して近くはないが遠いという距離でもない。大体、青年たちと旅をしていた頃は若い彼らの体力に合わせてこの程度は平気で歩かせられたものだ。それに間もなく見えてくるはずのバクティオン神殿からなら、ノードポリカはもう目と鼻の先。 「大丈夫…大丈夫」 ただ歩き続けているだけなのに悲鳴を上げそうな体を、船の中で買い求めておいたウィークボトルを流し込んで誤魔化す。 この辺りの森は深い。本当は夜にこの辺りを抜けるのなら走ってでも短時間で平原まで出るのが得策だ。だが、天才魔導少女に死にかけだと評される今のレイヴンにはその選択肢を取ることは出来ない。 今、ここで死んだりするようなことがあればそれは青年を巻き添えにしてしまう。一緒に死ねたら本望などと思わないわけではないが、それはこんな形での話ではない。 「それに、まだ…青年の返事。聞いてないしね…」 だが、とレイヴンは灰碧の瞳で背後の茂みを伺い見る。さっきから茂みを隠れ蓑にひたりひたりと足音を忍ばせてついて来る何物かの気配。 あまり強い魔物と戦うのは得策ではない。 術と弓の合わせ技でならなんとかなることでも、弓と短刀だけでは敵に距離を詰められてしまえば成すすべを失う可能性がある。せめて剣を持ってくるべきだったと後悔するが、今更そんなものはない。 ざり、ざり、と四足の動物がいつ飛び出そうかとタイミングを計っているときのような土を掻く爪の音が微かに耳に届く。幸い、相手も単独であるらしい。 懐の中に潜ませてある短刀に左手を這わせたまま、相手もこちらの出方を伺っているらしく時間が膠着する。レイヴンは鋭い視線で暗闇の中僅かに見える魔物の姿を確認して小さく舌打ちをすれば、それが合図だったかのように茂みからシュベルトが一頭勢いよく飛び掛ってきた。 「―――くっ!」 獅子の牙として合成アイテムでは重宝がられる長い牙から繰り出された一撃目をなんとか短刀で受け止めて、互いに体を弾いて間合いを取る。 弾いた後も腕に痺れを残すほどの一撃の重みに、いくら剣に長けているとはいえ短刀ひとつで相手にするのはやはり分が悪い。 どうしたものかと、思いながら右手に握り締めている弓に矢を番えておく。しかし、どうにか一射目を当てたところで二射目を狙う間はないだろう。 術を、とも思うが危険な橋は渡るべきではない。 「どうしたもんかしらね…」 一人口の中でごちて、間合いを詰められないように距離を取る。 手の中の一射でうまく相手の気を逸らせられれば、その間に走って逃げられはしないだろうか。幸いにもアイテムを詰めた小さな袋の中にはホーリーボトルがまだ入っている。敵の攻撃範囲から外れたところでボトルを撒けば…勝算が見えたような気がした。 他に方法はない。 「うああああああああああああ!」 意を決して矢を番えた弦に指をかけたところで、派手な悲鳴があがる。振り返ればいつの間にか背後に大仰な荷物を背負った男が、真っ青な顔でシュベルトを指差したままガクガクと震えている。 「あんたは…!」 何度も反芻するように思い出していた男の顔に灰碧の瞳が見開かれるが、再会を喜んでいる暇などあるはずもない。押し手と引き手を思いっきり引いて、一気に張りつめさせた弦から焦点を絞りきるよりも早く右手から矢を放つ。 狙いは甘いがそれでも長距離を確実に狙える弓を使っている分、矢が描く放物線は直線に近いままシュベルトの左肩を抉ることに成功した。 痛みと飛び散る血に一瞬できた隙をついて、レイヴンは男の震える手首を取ると鮮やかな色の羽織を翻して一目散に大地を蹴る。走り出す右足に体重をかけようとしたところで視界が歪んだが、思いのほかしっかりしていた膝に支えられて左足を踏み出す。 全力疾走と言うには笑われそうな速度だったが、相手も手負い。逃げ切れるはずだと、上がりきった息にホーリーボトルを撒こうと半透明の蓋に手をかけた瞬間。 磨ぎ石で磨き上げられたような前足が、レイヴンよりも後ろを走っていた男に狙いを定めて振り下ろされた。 「――――っ」 頭で考えるよりも先に体が動いて、男を庇うように己の腕に抱きこむと同時に鋭い痛みが背中を走る。そのままなぎ倒されるように頭から地面に突っ伏すと、倒れた体の重みで手の中にあった硝子瓶が割れてあたりに清浄な気配が満ちていく。偶然だったが、そのお陰で更なる一撃をくらわずに済んだのは有難かった。 未だに諦めきれずにホーリーボトルの効果範囲ぎりぎりをうろつくシュベルトに、今度こそ男がここから動かないように力の入らない手で男の服の裾を引いた。 「だ、大丈夫なのか?」 覗きこんでくる男の顔にレイヴンは、灰碧の瞳をやわらげる。 「…あんたを探してたんだ」 「俺を?って、お前あの護衛ギルドの」 「そ。あんたに売って欲しいものがあって、ね」 痛みに軋む背中を庇いながら上半身を起こして座り込んでみれば、背中の裂傷から溢れた血が鮮やかなはずの羽織を闇夜でも分かるほどに染替えていた。 「まいった…ね」 こりゃ。 確認するように背に回した手のひらには、べっとりと粘性のある液体の感触。相当な出血量であることだけを悟って、レイヴンはそっと左胸の魔導器に血濡れの手のひらをあてた。 「売る、いやなんでもくれてやるから早く怪我の手当てをしてくれ!ホーリーボトルの効果が切れたらまたあいつが襲ってくるんだろ?」 「………」 傷に恐れをなした男が半場パニックのように叫ぶ。 確かにたとえばこのまま己が死んで、ホーリーボトルの効果が切れればこの戦闘能力皆無の男がシュベルトでなくとも他の魔物に襲われる可能性は高い。そうなれば、誰もキルタンサスの乾燥花を届けることは出来なくなってしまう。 ――ユーリ。 過出血によってだんだんと霞がかってくる頭で、そっと愛しい名前を呼ぶ。 「おいっあんた、エアルがなくても術が使えてたじゃないか…回復術くらいっ。グミでもボトルでも俺が持ってる、だからこの傷を…!」 体を支えるように添えられた男の手のひらが熱い。 彼の言うとおり回復術を使って傷を塞ぎ、それからアイテムで体力の回復をはかるのは大きな傷を負ってしまったときの順当な施術だ。けれど、生命力という残量のわからない砂時計から心臓魔導器のエネルギーを作り出している己の体は今、適量だけを砂時計から取り出すことが出来ない。 残量が分からない以上無茶をすればその瞬間に砂時計は空になってしまう。 …いけるだろうか。 羽織ごと心臓魔導器を握り締める。 死にたいわけじゃない。けれど、このまま青年をも失ってしまったら?確かに自分の命は凛々の明星に預けた。でもそれが全てではない。むしろ。ユーリが凛々の明星にいなければ、自分はシュヴァーンのままバクティオン神殿で死んでいたはずだ。アレクセイの人形のまま。 だったら、俺の命全部かけたっていいじゃない。でもさ、青年の答えを聞くまでは死にたくなんてない。 矛盾した己の考えに僅かに口の端を上げれば、つ、とぬめった鉄の味の液体が顎に落ちていく。 「おいっ!しっかりしろ」 時間がない。 腹を決めて、瞳を閉じる。まぶたの裏に青年の青白い横顔が甦る。違う、自分が見たいのはあんな死人のようなユーリではなくて――― |
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