林とか森と言っても差し支えのない道を走り抜ける。足元は乾いていて、踏みつける地面は硬い。息がどんどん上がって、感情の機微で決して変わることのない心臓魔導器の拍動が苦しい。走っても走っても心拍数が上がらないのだから、体中に回る酸素が足りないのだ。 苦しい。 それでも走るのを止めないのはあと少しで己が目指す場所にたどり着くからに違いない。 あの日受けた護衛任務の最終目的であるノードポリカは目前だった。だが、星喰みによって最も荒廃した地域とあって魔物は凶暴だし、依頼人は商人ギルドだと名乗ってはいるが戦闘はからっきしで度胸もない。 ちらり、と幸福の市場の女社長が頭をよぎるが帝国とも友好関係を築く偉大な五大ギルドのひとつと比べられては元も子もないような弱小商人。男が自慢するような珍しい品が手に入った今でなければ、比べるのも不憫というものだろう。 そう割り切ってここまでの長い道中をいつも通りの軽薄さで乗り切ってきたのだが、ここに来て問題が起きた。 ノードポリカ周辺の魔物に依頼人が慄いたあまり、あれ程動くなと念を押した戦闘中の待機位置から抜け出してきたばかりか、魔物の攻撃範囲で尻餅をついたのだ。更には腰が抜けたのかそのままじりじりと地面を這うように移動するしかできない。 あれでは喰ってくださいと言っているようなものだ。 「なんで出てきちゃったのよ!」 「うううううううううう、動けねぇ」 今にも大の男が泣き出しそうな声を上げるものだから、レイヴンは鋭い舌打ちをひとつして背にかけていた弓に矢を番える。 初めの一射を迅速に射れるように弦を太く、しなりを柔らかくした特製の弓は飛行距離が短く高い放物線を描きやすい。つまりは急所を狙う余裕がなくて、的のどこかに喰いこめればいいときに使うものだ。その思惑通り、放たれた矢は決して急所とは言えない位置に当たって魔物の注意をこちらにひきつけることに成功した。 「今のうちに、逃げろ!」 声の限りに叫ぶが男はそのまま動くことができない。仕方なく二射を用意しながら、レイヴンは口の中で短い詠唱を唱える。 本当は魔導器の消えたこの世界で術技は使いたくない。 たくさんの犠牲や想いや、自分より一回りも年下の連中が頑張って、本当はさせたくない様なことまでして手に入れた新しい世界だ。誰に誓ったわけでもなかったが、レイヴンはあの日から術技を使うことを自らに禁じていた。 最後に残ったヘルメス式魔導器の存在を知られては色々面倒だというのは表向きの理由だが、本当はどうだったのだろう。 この命が惜しくはなかったか?魔核が世界から消えると言われたときなにを思った?未来が欲しいとは思わなかったか? 答えが出ないまま、ぎりりと奥歯を噛みしめて最後の詠唱を完成させる。 「受けよ白銀の抱擁、インヴェルノ」 氷雪系の術によってあっという間に魔物の全身が凍りつく。そこを狙ったように二射目で駄目押しのように眉間を貫けば、完全に凍り付いていた魔物は粉々に砕けて落ちた。 「…すげぇな、あんた!ギルドなんかやってないで、帝国につけば相当な金で雇ってもらえるだろうに」 「そりゃどーも…」 「ほら、噂じゃ貴族連中がそういう奴らを欲しがってるっていうじゃないか」 興奮気味に話す男に適当な相槌を打ちながらレイヴンは、鈍く痛む胸を鮮やかな色の羽織ごと握り締めた。 これほどまでに酷い痛みは今までなら大規模な術や秘奥義を使ったときぐらいしかなかったものだ。魔導器を宥めるように肩で息をしながら考える。 久しぶりすぎて、反動が大きかった…? かき抱いた胸と上がってしまった呼吸を肩で制そうと地面にひざをつく。目の前の魔物を撃破した途端に威勢の良くなった依頼人がなんだかんだと言っているが耳に入ってこない。 罰かね、これは。 そう思って立ち上がろうとしたところで、足元に濃い影が落ちた。依頼人かと思って顔を上げればそこには黒髪を風に揺らした見慣れた男が逆光の中で立っていた。 『痛むのか?』 尋ねられた言葉に無駄だと知りつつ頭を振れば、案の定胡乱な眼差しが投げかけられる。何度もした問答だ。 その暗紫の視線を見返しながら青年はどこまで知っているのだろうかと、時折疑問になる。リタにメンテナンスを頼んでいるのだから、不安要素は青年に筒抜けになっていると思って不思議ではない。だが、その割りに彼はいつも同じ科白を言うばかりかこちらにまで仕事を回してくるのだから質が悪い。 今回だってそうだ。青年がどうしてもと言わなければ、あんな依頼人とムッサイ二人旅なんてごめんだったのだ。どうせならあのまま青年と騎士団長さまを追いかけて帝都に行った方がどんなにか有意義だったのに。 『心臓魔導器の調子が悪いんだろ、顔色悪ぃんだよ』 無茶すんなと差し出された手のひらに己の手を重ねれば、よいせっと勢いよく引っ張り起こされる。自分より少しばかり上にある暗紫の瞳を見上げてレイヴンははた、と首を傾げた。 「青年、いつ帝都から戻ったの?」 『はぁ?戻ったってどこにも行ってねぇだろうが。呆けるにはちょっと早いぜ』 「そう…だっけ?」 不思議そうに首を傾げた青年の肩から艶やかな黒髪がすべり落ちて、その仕草が僅かに彼を年齢よりも幼く見せる。 何かがおかしい。よく考えろ、あの日$ツ年が騎士団と帝都に行くと言い出してレイヴンをダングレストから引き離した。 それから? そこまで考えて、脳裏に冷たい石床に散らばった長い黒髪と白い肌を汚した赤色が甦る。灰碧の瞳を見開いて、思わず詰めた呼吸ごと目の前に立つ黒髪の男を見上げれば同じように口の端から一筋の赤黒い液体を滲ませてそのまま闇の中に倒れ落ちていく。 「―――ユーリ!」 声の限りに名前を呼んで手を伸ばす。そしてそのまま、身を起こして残像のように闇の中に消えた青年を追いかけしたところで強く左腕を引かれてつんのめるように全ての動作が止ったところで、静かに名前を呼ばれた。 荒い呼吸と目じりに滲んだ涙で歪む世界に二度三度深い瞬きを繰り返して見渡せば、視界の端にコーラルピンクが揺れてレイヴンの腕をしっかりと握り締めている。 「大丈夫です?」 「…ゆめ、」 「多分。随分魘されていましたから」 そう言ってエステルはしっかりと握り締めていた手を解放する。離された手のひらには移り香のように仄かな体温が残っていて、思わず苦笑がもれた。悪い夢を追い払うように手のひらを握り締められたのなんて、何時ぶりだろうか。 「リタにはもう少し休ませるように言われていたんですが…心臓魔導器の調子はいかがです?」 魔導器、そう言われて硬い左胸の感触を確かめる。 痛みはない。慣れた手つきで右手首の内側を探れば、微かな拍動が魔導器が正常に動いていることを知らせていた。青年優先にしてくれと言ったのに、無理やりにでも時間を作って調整してくれたのだろう。 「もう大丈夫。それより青年は?」 「まだ目を覚ましません。でも、リタが解毒薬の精製方法を発見しましたから」 大丈夫です。 まるで自分に言い聞かせるような言葉と共に無意識に少女が視線を向けた隣のベッドには、長い投獄の間に艶を失った黒髪がシーツの上に散っている。最悪の事態を告げられなかったことに安堵しながらも、レイヴンは別のことに気がついてしまって渋く顔をしかめた。 ジュディスと二人で治癒術とポイズンボトルを試そうとしていたのは、帝都から飛び立ったばかりのフィエルティア号の船室だったはずだ。いくらバウルとは言え、帝都⇔ダングレスト間を短時間で移動できるほど速くはない。だというのに、今己が寝かされていたベッドも青年が横たわるこの部屋も見慣れたダングレストにある自分の部屋なのだ。 いったい帝都からダングレストまで少なく見積もってもどのくらいかかっただろうかと、レイヴンは頭を抱えて深いため息をついた。 「…どんぐらい眠ってたわけ?おっさん、腰がもうバキバキ言ってるんだけど」 「ひと晩。バウルがダングレストについてからだと半日ってとこでしょうか」 コーラルピンクの髪を揺らして、エステルは気遣うようにユーリとレイヴンを見比べながら言い難そうに告げる。 「でも安心してください!解毒用の薬草を採りに今、ジュディスとリタがカロルを連れて出ていますから―――レイヴンはこのままここで安静にしていてください」 安静に。 その言葉に隠された意味合いに聡く気づいてしまってレイヴンは、口の端を薄く上げたような笑みを浮かべた。 「リタっち、なんて言ってたの?」 「ですから、安静に―――それからもう少し休むようにと…」 「魔導器(コレ)、もうどのくらいもつって?」 言いつくろい切れなくなったお姫様が、眉を下げたままそれでもシャンと背筋を伸ばして形のいい唇を引き結んでこちらを見上げた。 「…レイヴン」 ベッドの脇に引き寄せた簡素な椅子の上で、それでも高貴だとわかる振る舞いと衣裳をまとっていると言うのに細くて白い指だけが心の不安を表すように何度もひざの上で組みなおされる。 たぶん、彼女の不安は不調な心臓魔導器につてだけではなく確実に青年に関しての部分も含まれているに違いない。わかっているよ、と伝えたくてレイヴンはその祈る形に組まれた指さきを赤ん坊をあやすようにそっと叩いてやる。 「…難しいことはわかりませんが、魔導器が随分不安定になっているようです。一時的な負荷でそうなっているなら簡単な調整でどうにかなるのかもしれませんが、そうでないなら、もっと詳しく調べないとわからないそうです」 「詳しく?」 「はい。でも今はユーリの解毒を優先しなければなりません。ですから――」 「絶対安静よ、絶・対・安・静!」 「リタ!」 エステルの声を遮るように機嫌の悪い声が被る。声のした入り口を振り返れば僅かに髪を乱したリタが、相変わらず毒について書かれた分厚い本を抱えて立っていた。 「ていうか、何でアンタ目ぇ覚めてんのよ…ジュディス、殴り足りなかったんじゃないの?」 「思いっきりやったつもりだったのだけど。次はもっと思いっきりやるわ」 穏やかな声とは裏腹に部屋に入ってきた二人の姿はあちこち汚れていて、ジュディスの手の中には青々しい植物がひと束握られている。目ざとくそれに気がついて、それが解毒薬なのだろうかと視線を投げかければむき出しの白い肩が困ったように竦められた。 「全部揃ったんです?」 「残念ながら、まだ足りないわ。それより状態は?何か変わったことはない?」 ふるふると艶やかな髪を揺らして首を振るエステルを横目に物言わずベッドに横たえられたままの青年を覗き込んで、リタがひと通り様々な角度から診察する。そして最後に青年の体がきっちり毛布に包まれているのを確認して、一度は布団から引っ張り出した長い腕を再び温かなその中へと仕舞い込んだ。 強制的に体温を下げることで仮死状態にする毒なのだから、体を温めることでこれ以上の進行を食い止めようとしているのだろう。だが、既に青年が毒を呷ってから半日以上経過しているのだ。対処療法でどうにかするには少々時間がかかりすぎている。 「あとどのくらいこの状態を保てるのか、聞いてもいい?」 光に透かしても色を薄れさせない髪とのコントラストのせいで、尚更青白く見える青年の横顔を見つめたまま尋ねれば、グローブをはめたままの小さな手のひらがきつく握り締められる。 「…おっさんには教えられない。教えたら、絶対無理するし。気づいてないかもしれないけどね、アンタいつでもユーリのためならちょっとくらい無茶なことでもやっちゃうのわかってないでしょ」 「そうは言ってもさ、この状態で栄養もなんも取れないんじゃ三日も持たずに普通死んじゃうでしょうよ。大体この薬で仮死状態にするのだって本当は数時間単位で目覚めるようにするもんじゃないの?」 「だからって、今にも止まりそうな心臓魔導器持ってるやつに何が出来るって言うのよ!」 「リタ…!」 クリティアの少女の咎めるような鋭い声に萌えるような緑の瞳がはっ、と見開かれてばつが悪そうに視線が逸らされる。思い切りよく顔をそむけたせいで、腕のリボンだけが遅れてやわらかな軌跡を描いた。 背けられた後頭部にそっと手を伸ばせば、大人の腕は楽に立ったままのこどもの頭に届いた。そのまま土埃で汚れたままの短い髪を梳くように頭を撫でてやる。 「おっさんのこと心配してくれてありがとね。リタっち」 そう告げた途端、微かに覗くまだ幼さを残す頬が真っ赤に染まって、ますます少女が要らぬことを告げてしまった唇を閉ざした気配だけが伝わってくる。 「でもね、おっさん。さっきリタっちが言ったとおり青年のことに関してはさ、譲れないんだわ。だから――青年につても、心臓魔導器についても包み隠さず教えて?」 |
前<< >>次 |