Diamond Ф Bangle

 遠から雷鳴と屋根を打つ鈍い音が響いて、ユーリはずっと臥せっていた顔をあげた。
 暗い地下牢の中は湿った石壁とひんやりとした空気を相変わらずまとっていて、見張りの兵士が交代にきたときに交わされる囁きのような雑談以外、空気を震わせるものもない。
 退屈だ。
 ちょくちょく顔を見せていたフレンも忙しいのかここの所はさっぱりやってこない。
 持て余した時間はどうしても振り切れない思いや記憶を甦らせて、ユーリは小さく頭を振る。微かに灰碧の瞳がちらつくが、なんとなくあの晩の気まずさを思い返してしまって無意識のまま左手で唇を拭った。
 少しずつ強さを増していく雨の音はバラバラと勢いをつけて石壁を打つ。
 重く淀んだ空を確認することさえ出来ないまま、耳をすませていたところにガチャリ、と錆びかけた鍵を回す音が響く。ぐるりと音のした方向へ視線を向けてユーリは口の端だけをあげて微笑んだ。

「待ってたぜ」





―――サフィニアの啓示







「これは一体どういうことなのよ」
「どうもこうも、ユーリは処刑されたの」
「毒の杯を自ら呷って、親友だった騎士団長様の目の前で…ね」
 冷静な二人の声に余計腹ただしさを覚えてレイヴンは思わず、左手で強く壁を打った。どん、という鈍い音とともに船が揺れて遠く、バウルが抗議するように短く鳴く声が響く。
 ジュディスが宥めるように中紅の瞳で宙を仰いでから、深いため息をひとつつくとレイヴンに真正面から向き合った。振り返った拍子に澄んだ水のような青い触手がゆらりと揺れる。
「…死んでいないわよ、彼」
 放り出された言葉に一瞬、思考がついていけずに止まる。
 何かを言おうと口を開いて閉じて、再び口を開いてみるがぱくぱくと陸に上げられた魚のように酸素を取り込むばかり。数度そんなことを繰り返してやっと、搾り出すような声が漏れた。
「…生きてんの、青年…」
 呆然とつぶやいた視線の先には青白く冷たいまま硬いベッドの上に横たわる青年の姿があるばかりで、地下牢から運び出したときの両の手から零れ落ちるように冷たくなっていく体温は未だレイヴンの手の中に感触として残っている。
 信じろ、と言われて信じられるような状況ではなかったはずだ。
 確かめるように再びユーリのながい睫毛の影が落ちる痩せた頬へと指先を伸ばすが、やはりいつでもうっすらと冷たい己の指先よりも馴染んだ死人の温度がそこにある。
 命まで預けるといった仲間の言葉を信じていないわけではないが、レイヴンの目の前にあるそのどれもが、彼が生きているのだと信じるには足らない。
「ユーリが飲んだのは、確かに命も奪える毒よ。だけど、毒はうまく使いさえすれば薬にもなる」
「だから分量さえしっかりすれば、命を落としたりしないわ」
 天才魔導少女の説明にレイヴンはふと、考え込むように口元に手を当てた。
 昔、聞いた仮死の薬の話を思い出したのだ。
 十年前、心臓魔導器を埋め込むために瀕死の兵士たちにその薬を飲ませ強制的に体温を下げて仮死状態にする。そして生きた心臓を抉り出し、その穴へ心臓の代わりとなる魔導器を埋め込んだのだ。完全に死した後に埋め込んだのでは、体の機能が失われてしまうために上手くいかないのだと。そう、確かに笑ったあの男の顔が脳裏によみがえる。
 無意識に左胸に指を這わせて、その硬い感触に吐き気がする。
 あの当時何人もの同胞たちが心臓魔導器を埋め込まれたが、結局多くの者たちは皆拒絶反応であったり精神的に可笑しくなって死んでいった。
 この世にたった二人だけ、イエガーとシュヴァーンを残して。
「その毒って体温を強制的に下げて仮死状態にもってくやつ…よね?」
「…よく知ってるわね」
 感心しているというよりは、訝しむように大きな瞳を歪ませてリタがこちらを見上げてくる。組んだ腕から黄色いリボンが落ちて、揺れた。
「だったら、」
「?」
「だったらどうしてユーリは吐血したの。あれは血なんか吐く薬じゃない」
 思わず目の前の華奢な肩を強く握り締めて、喉の奥から競り上がってくるような不安を飲み込みきれずに呟けば肩の痛みに顔を歪めた少女と、それを止めようと間に入ろうとしたジュディスも思わずその動きを止めた。
 一瞬にして訪れた静寂に、空を渡るバウルの翼が風を切る音と船の軋む音だけがあたりに響く。
 きゅ、と色の薄い唇をきつく噛みしめたリタが、レイヴンの腕を振り切って横になったままのユーリの側へと駆け寄る。一緒に駆け寄ろうとした己の腕はジュディスの細い指に引き止められた。
 邪魔をするな。ということなのだろうが生憎とそんなものには従えるはずもない。青年を挟むように反対側に膝をつけば、口元に残るわずかな血の痕を見つけた少女が悲痛な声を絞り出した。
 手元には見慣れない革張りの本が広げられている。
「…量が多すぎたのかもしれない」
「でも、きちんと彼に聞いた体重から割り出した分量だったのでしょう?」
 未だにレイヴンの羽織をつかんだままのジュディスが冷静を装ってたずねれば、少女はこくりと頷いた。だが、納得がいかないのか凄い勢いで本のページを再び捲っていく。
「わからない―――でもこの毒は量が多すぎると、ううん。本当に毒≠ニして使用したら吐血して死に至る」
 細い指で小難しい単語の並ぶ文字をなぞっていけば、絶望的な結論にたどり着いて少女はがっくりとうな垂れた。どうして、とそればかり繰り返す色を失った少女の唇にレイヴンは微かに震える己の両の手を見た。
 つい先刻ザーフィアスの地下牢で痩せてしまった、もっと早く助けにくるべきだったと悔やみながら青年の体を抱き上げた己の手を。
「…青年、軽くなってた。さっき抱き上げた時確かに」
 痩せたな、って思ったのよ。
 どうして彼が毒を飲むはめになったのかとか、どうしてその毒を用意したのが過激派の貴族ではなかったのかとか、色々問いただしたいことは山ほどある。けれど、そのどれも口にすることすら出来ずにレイヴンは右手で顔を覆って一度深く灰碧の瞳を閉じた。
「解毒の方法はわからないの?」
「時間が経てば効き目が切れて目が覚めるつもりだったから、薬が効いている間の対処法くらいしかわかんないのよ!」
 まだこの本読み終わってないから、解毒法もわかんないし…。無意識に苛ついたときの癖で、少女が咥えた人差し指を齧る。細い指に残る噛み跡に僅かに首を傾げてジュディスは自分の荷物袋の中から室温にぬるんだボトルをひとつ取り出してレイヴンへと放り投げた。
「このまま、解毒の方法は彼女に任せたほうがいいんじゃないかしら?」
「私たちは、私たちのやり方で。ね?」
 にこり、とこの状況で笑って見せたジュディスに呆気にとられながらレイヴンは手渡されたポイズンボトルとジュディスを交互に見比べた。
 うすい緑の液体が入ったボトルは確かに毒治療に用いるものだが、実際のところこのボトルの抗毒作用は魔物を中心とした毒に有効なのであり、植物から作り出されているはずのこの毒に効果があるかは疑問だ。だが、とレイヴンは薄いガラスで出来たボトルを握り締める指先に僅かに力をこめる。
「やれることは全部やってみないと…でしょう?」
「力技が凛々の明星の本領だもんねぇ、じゃ、手始めにいきますか」
「愛してるぜ=v
 ぱちん、と自分の指先から生まれた光がそっと触れた青年のすべらかな頬へと収束していくのを祈るような気持ちで見届ける。
 毒の症状に治癒術なんて無駄なこと、自分だってそう思う。けれど何もしないよりマシだ。目に見えなくとも毒でじりじりと体力は奪われているだろうし、それが最悪解毒剤が見つかったのに致命傷になったでは笑い話にもならない。
 固く引き結ばれたままの色のないくちびるから、あの日の返事を聞くまでは。絶対に。
「どうかしら?」
「さぁね、――っ!」
「おじさま?」
 光の消えた頬にもう一度触れようと手を伸ばしたところで、鋭い胸の痛みにぐらりと視界が歪んだ。
 踏みとどまろうと無意識に右手を彷徨わせるが、すぐ側にあったはずのベッドの縁を掴むことも出来ずに指先が空をかく。左手は羽織ごと心臓魔導器を抱き込んで、僅かに熱を持ったそれを沈めようと荒い呼吸を繰り返すが痛みはまったく楽にならない。
 あぁどうしてこんなこと。
 苦し紛れにそう思って、ノードポリカでの出来事を恨むが歪んだ視界はあっという間にセピアのキューブで覆われて、気がついたときにはベッドの縁を掴み損ねた右手ごと床に倒れこんでいた。
「レイヴン!」
 倒れた瞬間にはもう意識がなかったらしく打ち付けたはずの頬にも肩にも痛みはないが、起き上がろうとして四肢の末端に力を込めてはみるが思うように動かない。
「ちょっと、ジュディス!おっさん仰向けにするの手伝って!…大丈夫、多分心臓魔導器に負荷がかかっただけだろうから少し調整してあげれば」
 大丈夫。
 か細い声しか出なかったが、それでも己の体を抱き起こした少女の耳には確かに届いたのか萌えるような緑の瞳がこちらを振り向いた。
「おっさん、大丈夫だから…リタっち。は…せーねんを、ね?」
「バカいわないで。あたしは、あたしの目の前で魔導器が苦しんでるのも誰かが死ぬのも嫌なのよ!」
「ジュディス!」
「えぇ。そうね…おじさま。安心して頂戴、ポイズンボトルはちゃぁんと私が試しておくから―――おやすみなさい?」
 鈍った頭で言われた言葉の全てを理解するよりも前に、せっかく仰向けに抱き起こされた鳩尾へ鋭い痛みが走った。



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