人ごみを避けてユニオンを後にすれば、ギルドの男たちが相変わらず騎士団がやってきた理由の説明を求めて殺到している以外は全くもっていつも通りの街並みが広がっていた。 顔なじみになっていた露店の女商人に声をかければ、誰を捕まえにきたんだろうねぇ。なんて言いながらおつりの硬貨と小さな紙切れを手のひらに乗せてくれる。まさか、自分を捕まえるためにユニオンへ交渉しに来ているだなんて言えるはずもなく、ユーリは曖昧な返事をして露店を離れた。 露店が立ち並ぶ表通りから裏通りに入れば、レイヴンが以前からユニオン幹部に与えられる私室のほかに街中に借りている部屋までは歩いて数分の距離だ。露店で買った林檎を適当に磨いて齧る。甘い果汁を手の甲でぬぐいながら、頭の中では別れ際にフレンに言われた言葉が回っていた。 長い髪が風になびいて見上げた空は高く、わずかに傾き始めた陽の色に染まり始めている。 深いため息をついている間に、足は勝手に部屋へと続く階段を上っていく。間借りとは言え、リビングと寝室を別々にとれる部屋の広さは下町での生活になれたユーリからすれば随分と贅沢だ。 「ただいまーっと」 遠慮なしに木製の扉を開けて中に入れば、真正面にある西向きの窓から茜色が差し込んでいる。 「おっさん?いないのか?」 声をかけながらリビングと据え付けのキッチンを見渡して、次に寝室にしている部屋のドアを開ける。無音の室内をそろりと覗き込めば、ここを拠点の代わりに使わせてもらっている凛々の明星のメンバーのために増やされたベッドのひとつに鮮やかな色の羽織が散っていた。 「……っ!」 一瞬、倒れているんじゃないかと慌てて部屋に踏み込めば、ベッドの下に丸まっていたラピードが静かにしろと服の裾を噛んで引いた。 ラピードの淡い空色の瞳を見下ろして小さく嘆息すると、ベッドの上に投げ出されているレイヴンの手首を取って脈を確かめる。脈の取り方は、以前エステルから教えてもらった人差し指と中指で手首の内側を探ればいいシンプルな方法だ。 心臓魔導器で動いているレイヴンに普通の人間と同じ方法でいいのかと、リタに尋ねれば読んでいた本からチラリと視線だけをこちらに向けて「心臓魔導器って言っても、要はポンプ作用を果たしているのに過ぎないわ。全身へ新鮮な血液を送り出して、古くなった血は肺へ送るの。だからどうしても、送り出すときの振動が脈になるわけ。よく考えて、全身に血を送るのよ?生半可な強さじゃないわ」そう返された。リタの説明は小難しくて半分も理解できなかったが、ともかく、心臓魔導器が動いていれば脈があることだけは確からしい。 うっすらと冷たい手首に微かに触れる命の拍動を見つけてユーリはそっと詰めていた息を吐いた。 くったりと眠る肩に隣のベッドに乗せてあった毛布をかけてやる。そしてランプの置かれたサイドテーブルにカロルからのメッセージが残されていたことに気付く。小さな紙に走り書きされたその伝言にユーリはがっくりと肩を落とした。 『レイヴン、疲れて寝ちゃったみたいだから帰るね。留守番はラピードがいるから大丈夫だと思うよ!』 「幾らなんでも、寝てるおっさん置き去りにすんなよ…ま。確かに留守番にラピードは正解だけど」 なぁ?と同意を求めればわふ。と一言だけの返事が返る。それきり黙ってしまった相棒にユーリは困ったように、よく見れば規則正しく上下を繰り返す羽織を見やる。 レイヴンとカロルに任せた仕事は、オルニオンからイキリア大陸を抜けてカプア・ノールへ荷を運搬し、さらにそこで貰った受領書を大元の依頼主が居るダングレストへ届けることで完了という拘束期間が長いわりにあまり金にならない仕事だったはずだ。 しかも彼らが向かったイキリア大陸付近は魔導器がなくなってから騎士団の手勢が最も多く割かれたため急速に整備が進み、以前のようにデイドン砦に魔物の大群が押し寄せることも無い代わりに、他の魔物が跋扈する地域に比べて依頼の値下がりを余儀なくされた場所でもある。 言ってしまえばそれだけ楽に依頼をこなせるのが、イキリア大陸関連だということになるわけだ。 なのにおっさんが帰ってくるなり寝ちまうほど疲れてるとはねぇ。 どんどん沈んでいく茜色が薄れていく部屋の中で、レイヴンの隣に腰掛ければ粗末なベッドが僅かにきしむ。閉じられたままの灰碧の瞳に無意識の不安を駆りたてられて、ユーリは翳した手をその肌に這わせた。決して柔らかくもないし、肌触りも良くない。けれど、脈をとったときに触れたうすら冷たい手首よりもずっと確かな体温がそこにはある。 脈の取り方を教わった時にリタが言っていたように、体幹に一番多くの血液を集めて臓器なんかの大事な部分を冷やさないようにしているのだろう。 指の腹だけで数度レイヴンの顔をなぞったところで、微かに震えた睫が覆い隠していた灰碧の瞳にうっすらと影を作った。 「おっさん?」 「ゆー…」 無意識に伸ばされた手のひらに頬を摺り寄せると、それでも温かさを求めて触れてくる指先を甘噛みしてやる。本当は思いっきり齧ってやっても良かったのだ。けれどそれを躊躇わせたのは、つい今しがたまで落ちるように眠っていたレイヴンの顔色が決して良くは見えなかったから。 「…およ?俺さま寝てた?」 「疲れてたんだろ、材料買ってあるなら俺が夕飯作るけど?」 「あーごめんねぇ。約束したのになんにも作ってなくって」 でも買い物だけは確かにしたのよ、と寝室の隅に放置されている紙袋を指さした腕は重力に従うようにぱったりとシーツの上に落ちた。 「いーって、おっさんはもう少し寝てろ……顔色良くねぇよ」 ぐしゃり、とレイヴンの額と頭をまとめて掴んでベッドに沈めるようにぐりぐりと押し付ければ、日が沈んで部屋に溢れる暗闇に同化しはじめた烏色の髪と藍色のベッドカバーの間から息を詰めるような気配がした。 おっさん?そう呼びかけて顔を覗き込めば、長い髪がさらさらと落ちて自分とレイヴンを囲うように細くて心もとない格子を作り出していく。 「痛むの―――うわぁ!」 突然伸びてきた大きな手のひらがユーリのうなじに触れて、そのまま押しつぶされるようにレイヴンの胸の上に落ちた。不自然な落ち方をしたせいで、丁度心臓魔導器の筐体に右頬がぶつかる。 「っ、痛…」 「大丈夫?青年」 「大丈夫…つーか、もし魔導器に直撃してたらどうすんだよ!なにやってんだよ、おっさん!」 慌てて体重を預けていた上半身を起こそうとするが、本来の利き手以外でも武器を扱うために鍛えられたレイヴンの手のひらに抑え込まれた首筋は、必死で足掻いてみても体を起こすことさえ出来ない。 その上予期せず体を密着させられたことで、身長こそ己の方が大きいというのに実は手のひらのサイズでレイヴンに負けているとか、おっさんのくせに弓を扱うからびっくりするくらいその派手な羽織の下の肩はがっしりしていることに気付いてしまって、ユーリは小さくため息をついて抵抗することを諦める。そのまま力を抜けば薄手のシャツ越しに互いの体温が混ざる。 「ねぇ、ユーリ」 「んだよ」 硬い指先がユーリの髪に触れて、適当な手櫛となって長いそれを梳いていく。 「…好きよ?」 数度繰り返された手櫛が最後の毛先を通り抜けるのと同時に低い声が、囁やいた。体から直接響いてくる音と、空気を伝わって聞こえるいつもの声とが混じり合った不思議な声音にユーリは長い睫をしばたかせた。 何を言われたのかわからない。 いや、言われた言葉はすぐに理解できる短いものだったのだけれど、頭がついていかないのだ。 誰が誰を好きだって? 変な汗が背中を伝うのを感じながら、真っ直ぐにこちらを見上げる灰碧の瞳を見た。 日常的にジュディやエステル、果ては冗談半分でリタにまで声をかけるレイヴンではあるが、その誰もが口を揃えてレイヴンは本当に二人っきりになったらあんな冗談みたいな告白なんてするはずがないのだと笑う。「軽いふりをしているのね」とジュディは瞳を和らげるが、今、この部屋の中にはレイヴンと自分しかいない。 だからこそユーリはこのたった三文字の言葉が男同士故の冗談なのか、それとも本気なのかがわからない。 わからないから茶化すことも出来ずに、何かを返そうとした口は中途半端に開いて、結局何も発することも出来きないまま閉じられた。 「返事なんていらないの。おっさんが勝手にそう思ってるだけ」 親愛だったり愛情だったり、感謝とか。そんな陽の感情を全部ごちゃまぜにしたやわらかな声とともにユーリを縛り付けていた力はなくなって、代わりのように再び長い髪が梳かれていく。 顔を合わせてしまったら何かを話さなければならないような気がして、顔を上げることが出来ない。けれどこれ以上相手の胸に体を預けていられる筈もなく、ユーリはのそりと起き上がると最後の抵抗として長い髪で顔が隠れるように深く俯いた。 「だから、返事なんていらないって言ったでしょ?顔、あげて頂戴よ」 「……っ」 先の硬くなった指先が長い髪をかき分けて、俯いたままのユーリの細い顎に添えられる。自分がどんあに酷い顔をしているかなんて想像もつかないけれど、それを見たはずのレイヴンはほんの少し驚いたように灰碧の瞳を見開いてそれから。見たことがないくらい柔らかな笑みを浮かべた。 |
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