彼は確かに言ったのだ。 あの声も表情も、全て覚えている。 ―――ならば、この現実はなんだ。 【ラナンキュラスの逃亡/ED後捏造前編/01】 かしゃん、と軽い素焼きの陶器が床に落ちて砕ける。 暗い最低限の明かりしか入らない地下牢で、ついさっき見開かれたはずの暗紫の瞳がゆるゆるとスローモーションのように閉じられていく。叫んだはずの名前は、自分の耳には届かなくて本当に己の口が、喉が、その愛しい名前を刻んだのかもわからずに何度も何度も手を伸ばす。 ほんの少し前まで死人の己と世界を隔絶するためにあった鉄格子を超えることすら出来なくて、レイヴンの日にやけた指が空をかいたのを嘲笑うように、薄いまぶたの閉じられた青年の体は力なく冷たい床に倒れこんだ。 「――――リッ、」 更に腕を伸ばそうとした肩に冷たい鉄格子がぶつかる。 どうして届かない、どうしてこうなった。 頭の中がぐるぐるとどうしようもないことを考え続けるその肩にグローブをはめたままの手が置かれた。 「レイヴン殿、これは…一体」 牢獄には不似合いな白金に輝く甲冑と蜂蜜をよって集めたような金色の髪を見上げて、レイヴンはうまく動かない顔の筋肉を無理矢理歪ませて端正な顔を睨みつける。 「死刑執行だ」 「貴方は…!」 顔を覆い隠すように長いローブをすっぽりと被って立っていた男が、するすると懐から丸めた羊皮紙を取り出して見せ付けるように広げる。 広げられた羊皮紙には、確かにユーリ・ローウェルの名前と彼の犯した犯罪の数々が書き連ねられていた。その多くは偽装されたものだったが、いくつか――脱獄や貴族殺し――についてはこの場にいる誰もがそれを否定しえる言葉を持っていなかった。 否、持っていたとしてももう刑は執行されたのだからそれは何の意味も持たないのだけれど。 「皇帝陛下はこの者に恩赦を与えると…その手はずはもう殆ど整っていたはずでしょう!どういうことですか、いくら評議会が反対しているとは言え、勝手に刑を執行する許可など誰も与えていない!」 「…シーフォ」 「レイヴン殿」 石造りの低い天井に響き渡る声を静かに制して、レイブンは座り込んでいた冷たい床からのろのろと立ち上がった。 「鍵を」 「レイヴン殿!」 「鍵を渡せ、シーフォ。評議会のやり方はわかっていたはずだ。そしてそれを御しきれなかったのは我々の落ち度だ。抗議などしてもはじまらん」 いつもの飄々とした掴みどころのない声を出す余裕はない。今にも暴れだしたいような感情を無理矢理押さえ込むのが精一杯で、騎士団長殿の手に握り締められていた鍵束を奪い取るとすぐに重い鉄扉を開いた。 床に落ちたままぴくりとも動かない白い頬に触れるのを一瞬躊躇って、それでも意を決したように包むように触れる。 ぬるい体温。 死体に触れるとき特有の生理的な悪寒が混じるが、構うことなくその体を抱き起こす。 どうしてこんなことになった。 意識とは別に零れた雫にすべらかな頬が濡れて、乱暴にぬぐってやる。 「ユーリ…どうして」 さっきまで評議会の執行人に対して、正式な抗議を提出するだのなんだのと揉めていたフレンがいつの間にかレイヴンの腕の中のユーリを悲痛な瞳で見下ろしていた。 「ユーリはこのままダングレストに連れて行く」 「しかし、」 「ダングレストには仲間がいる。君とはここで別れを惜しめるが彼らはそういう訳にはいかないだろう?」 高く高く澄んだ雨の後のような空色の瞳を薄く閉じて、決心したように小さくうなずいた。 「ヨーデル様やエステリーゼ様への報告は僕が承ります。レイヴン殿は早く彼を、ユーリが大事にしたいと思った人たちに合わせてあげてください」 死刑執行後のもろもろのことも全てこの若い騎士団長なら、たとえ遺体がなくとも巧いこと片付けてくれるだろう。 最後にまだ柔らかなユーリの体をぎゅ、と抱きしめる。それから掛け声とともに背に負えば、力の入らない体だというのに牢の中で痩せてしまったのだろう。思ったよりも軽い体に益々後悔する。 もっと早くに助けにくればよかった、と。 |
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