逃げよう、とも。 逃げるぞ、とも。 いわなかった。いえなかった。 けれど、兎は逃げ出した。 障気に満ちた世界は想像以上にルークの心を蝕む。 何度も、何度も。障気を中和する夢をみていた。 何度も、何度も。やまと積まれた障気障害の死体の前で泣き崩れた。 もういいと。 強く握り締めるガイの手を振り払おうとした。けれどその度自分の薄く透けた、消えていく指先をつなぎとめるように握り締める手を振り払うことはできなかった。 この手のほかに引き止めてくれるぬくもりがわからなかったから。すがるように旅を続ける。 二人の関係は、つなぎとめるものとつなぎとめられた命という以外以前とまったく変わりなかった。 ただ、刻々と時間だけは過ぎていく。 日々濃くなる障気と、障気障害に悩まされる人々の増加。そしてルーク自身の音素解離も目に見えずとも進んでいた。 指先にはじまり、肘から先、肩、足…。 徐々に不自由さを感じたり、違和感を覚える部位が広がっていく。ルークはいつからか怯えるでもなく、ガイにそのことを告げるでもなく、黙って変異を受け止めているようだった。 だが。 終焉(おしまい)の日はくる。 「ガイ、」 「どうしたんだ、ルーク。疲れたか?」 「…限界、だろ?」 ためらいがちにかけた言葉に、年長の親友は握り締めた手をそのままにとぼけた顔で後ろを振り返った。 「なにがだ?ルーク」 「もう、いい。…ありがとな、ガイ」 曖昧な笑み。 視線は黙ったまま、つながれた指先に注がれた。 旅を始めた頃から、強く強く握られていたはずの二人の手の位置が不自然にずれていた。まるで、相手のいない場所で握手の練習でもしているかのよう。 目に見えない相手を必死に握り締めている。 「俺の手、もうないだろ?なのにお前ってば、あたり前みたいに手ぇつなぐから…ちょっとだけ自分でもなくなったなんて嘘じゃないかって思ったんだ」 「ルーク…」 「でも、さ。今朝目が醒めたときには体中が違和感でいっぱいで。…最期なんだなって、わかってた」 「だから、無理はしなくていいんだ」 するり、と指先を引き抜く。 否、握り締められたふりをするために前に伸ばしていた腕をもとに戻した。それだけ。 それだけなのにガイは、青い色の瞳を歪ませた。 置いていかれた腕が今度は肩を掴もうと伸ばされる。だがその手は一瞬も触れることが叶わずに通り抜けた。ガイはかまわず肩を掴んだふりをする。 「ガイ、」 「そんなこと言うな…お前は消えたりしていい存在じゃないんだ…!ルーク」 伏せられた頭に、こまったように笑う。 ガイはいつも置いていかれることに怯えていた。愛しいもの、信頼するものに再び置いていかれる夢をみていた。だから、あの時ルークの手をとったのだ。 逃げないように。消えないように。 けれど止められないこともある。 水に沈められたキャンディーが溶けていくように、ルークの身体は音素を放出し続けていたし、もう大本であるキャンディー自体がなくなろうとしている。 「俺、ガイが好きだよ。誰も救えなくても、誰にも助けてもらえなくても。それでもいいと思ってる。それぐらいに好きだ」 自分で言っておきながら胸の奥がひやりとする。もしかしたら顔ぐらい歪んだかもしれない。 けれどひとつ深い呼吸をすると、もう触れられないとわかっているガイの額に口付けた。 密度の濃い空気がそっと触れる感触にガイは視線を上げた。 「ガイ?」 「…わかってたさ。他の誰かが同じことをしたって、ルークは行かないって。それ以上に生きている意味を求めてるってわかってたんだ。ごめんな、ルーク」 最低だな、自嘲気味に吐かれた言葉に小さく息をのむ。けれど、ひどく嬉しそうに、笑った。 「ルーク、あいしているんだ」 許してくれ。そう続くはずだった言葉をきつく口を結んで引きとめる。決して許されることでないとわかっていたから。 目の前の儚い少年も黙って辛いことを飲み込んできた。 なのに自分が許されたいばかりに吐いていい言葉ではない。 きゅ、と唇を噛んだその瞬間。 水の中に落としたキャンディーの最後のかけらが浮き上がって消えるような感覚が体中に広がる。 あ、とも。う、とも。言う間すらなく残留していた音素が一気に放出される。音素をかき抱いた腕が重力に逆らえずに落ちた。 赤い髪のこどもはもういない。 「俺は、お前から死ぬ意味すら奪っちまったんだな…」 |
Vision Blood |