Diamond Ф Bangle

「アニスは将来なんになりたいんですか?」
晴れ渡る空の下、退屈しのぎにかけられる言葉に少女が華やかに笑う。少年は将来なりたいものの話を聞くのが好きだ。この質問だって、もう何度目かわからない。
「そいうですねぇ〜女性初の導師さまっていうのも捨てがたいですけどぉ、導師さまにはイオン様がいるしーやっぱりぃ、お金持ちのお嫁さん?」
「アニスは夢がいっぱいでいいですね」
「そぅですか〜?」
少しだけ不満そうに頬を膨らませて、少女の小さな手のひらがそっと側の少年の指先と取る。そのぬくもりに驚いたように髪飾りが揺れたが、すぐに胸の深いところから湧き出るような笑みが浮かぶ。
「アニス」
「はい?」
「夢がかなうといいですね」
少しだけ高い位置にある顔を見上げて、一瞬。少女の口元が歪む。何かを言い出したいようにわずかに口を開きかけて、無理やり笑みの形を取ると言葉を飲み込むように頷いた。

「だから…イオン様。素敵なひとが居たら教えてくださいね」



あぁ、これは夢だ。夢だ夢だ。
だってイオン様はもういない。

ひたりと涙で張り付いてしまったような目蓋を押し開けると、世界はまだ闇に沈んでいた。そういえば疲れたからと、ひとり夕飯も食べずにベッドに潜り込んだことを思い出す。
幸いお腹は空いていない。
アニスは小さな手の甲で乱暴に目を擦りあげて、ベッドの上に身を起こした。
同室のナタリアが毛布にくるまれて穏やかな寝息をたてている側を、裸足のままかけあしで通り抜ける。アニスの足は小さい。身長も小さい。おかげで体重も軽い。ひたひたとした足音は誰の眠りを妨げるわけもなく、廊下へと続く扉を押し開けた。
グランコクマの城内を裸足で歩いていくのは気が引けたが、今更靴をとりにいくのも難だったので、そのまま冷たい床を踏む。
ピオニー陛下の好意で用意された客室は、二部屋。男部屋と女部屋に分けて、ジェイドは自分の執務室に行くといっていたからたぶん、男部屋にはガイとルークが眠っているはずだった。
部屋を出てすぐの廊下の突き当たりにある大きな採光用の窓には大きな月が映りこんでいる。
まるで光に吸い寄せられる羽虫のように窓辺に寄ると、そこには先客がいた。
「…アニス?」
「ルーク、」
廊下の端っこに隠れるように座り込んでいた茜色の髪に、アニスは慌てて裸足の足を隠そうと両の足を交互に踏みつける。
「こ、こんなところでなにしてんの?」
あははは。と如何にも胡散臭そうだな、と自分でも思う笑いを貼り付けて逆光のルークを覗き込めば、相手も弱弱しい笑みを返してくる。
「眠れなくてさー。前はこんなときイオンと二人でよくこうして、月を見てたなと思って」
「イオン様と?」
思いがけない名前に宙を彷徨っていた視線が止まる。
導師守護役であって誰より側にいたはずの自分でも知らない主の話に驚くが、すぐにイオンがひどくこの少年のことを気に入っていたことを思い出す。
彼の髪が腰に届くほど長く、愚かでどうしようもなかった頃ですら、イオンは彼に心を砕こうとしてた。そして、その期待に堪えきらなかったのもまた、目の前の彼なのだ。
「二人でさ。だまーってずっと、見てたんだ」
「それって楽しいの?」
傾げた首に、普段は二つに結い上げている髪の毛がふわりと触れる。同じように目の前の彼も元は腰につくほど長かった髪を揺らして、どうだろうな。そうつぶやいた。
「どうって、だぁってずっと二人でだまーってて…あたしなら、有ること無いことなんだって話しちゃうよ…」
あぁ、もっといろんなことを話したかったな。
ふと湧き上がった思いに、アニスはきゅ、とお仕着せのネグリジェの裾を握り締めた。そんなアニスの行動を見咎めたわけではないだろうけれど、ルークがふわりと笑った。
「俺もイオンも、最初はいろんな話をしたけど…すぐに話すことなんかなくなってさ。だって、俺もイオンもレプリカだからさ」
レプリカだから。
「そんなこと、」
関係ないじゃん。そう口にしようとして、唇をすぐに閉じた。
イオン様はたった2年しか生きれなかった。ルークだって、まだたったの7歳なのだ。
思い出を全部語ったって、ひと晩やふた晩で尽きてしまうことこそないだろうが長く旅をして行く中でなら、確かに幼い彼らは話すことなどなくなっていくに違いない。毎日一緒なのだ。
互いに目新しいことなどすぐに無くなるに決まってる。
「だからかな。イオンがさ、いっつもアニスと話をするのは楽しいってゆってたよ」
「え…?」
仰ぐように見上げたルークの顔は逆光で見ることが出来ない。月の淡い青色にわずかに縁取られてしっかりと筋肉のついた肩は、いつの間にこんなに大人みたいになったんだろう。
「夢を語るってさ、俺たちレプリカにはちょっと…難しいから」
静かな夜の闇に溶け出しそうなルークの声で、甦る言葉。

『アニスは将来なんになりたいんですか?』

穏やかに、ゆるく薄いまぶたを伏せて決まりごとのように尋ねられる言葉。何度同じ問答をしたかなんてもう、わからない。
そしてもう、二度とすることのない問答。
ぼろり。と暗茶の大きな瞳から零れ落ちた涙に、自分自身驚いてしばらくぼろぼろと零れていく涙を歪んだ視界で見つめる。
「…とまんない、よ」
「アニス」
誰かを慰めたことなんてきっとないのだ。泣くなよ、な?俺が悪かったから…そんなこと言われたって、とまらないよ。言葉にしようと開いた口から漏れるのは嗚咽ばかりで、城の高い天井にわぁんと声が響く。
「アニス、アニス…ごめんな」
響く声が少し遠くなったと思ったときには、赤い夕焼け色の髪の毛が目の前で揺れていた。
抱きしめられていると気がついたのは、背に当たる手のひらが温かかったから。絹でできた夜着は薄くて心もとなかったが、縋りつくようにルークの肩に顔を埋めた。
「ルーク、イオン様ね」
「うん」
「いっつも夢がかなうといいですねって笑いながら言うの」
「うん」
涙はもう溢れていなかったけれどそれでも、まだ、目じりが熱を持ったように熱い。ルークの肩越しに見える滲んだ青い月から目を逸らすように瞼を閉じれば、眦に残っていた雫が頬を伝った。
「あたし、一回もイオン様にイオン様はなんになりたいんですかって聞かなかった…だって、イオン様は導師で、それってずっと変わんないって思ってたんだもん」
未来永劫、イオン様が導師なんだって。信じて疑わなかった、それが今は愚かしい。イオン様は『イオン』なんかじゃなかったのに。叶うことなら自分だけの違う何かになりたかったはずだ。
それが出来ないとわかっているから、彼は何度もアニスに聞いたのだ。自由に空でも飛べそうなアニスの夢を。
うえ、としゃくり上げれば枯れることをしらない涙の残りがルークの肩を濡らす。
「大丈夫。イオンはちゃんとわかってたよ」
わかってたよ。
繰り返し大きな手で背をさすられて、小さく頷くのが精一杯で。ごめんなさい、そう小さく呟いて再び鼻を啜れば耳元のルークが小さく笑った。
「…笑うな」
「笑わないよ。羨ましいなって思ってさ」
苦笑のような声と一緒に、よいせ、と抱き上げなおされれば互いにあわせた胸に命の音がする。
イオン様とだってこんなに近づいた事がなかったのに、ルークといまこうしていることがなんだか夢や幻のようだ。
青い月光の光しかない廊下の片隅で、まるで物語の恋人みたい。でも本当はもっと大人になって、イオン様とこうしてみたかった。導師と導師守護役だなんて、物語にうってつけの背徳感でしょう?
しばらくそのまま背中を揺すられて、泣き疲れて少しずつ重たくなってきた瞼を無理矢理こじあけて本当はあの人に言わなくちゃいけなかった言葉を向けた。
「…ルークは。なんになりたいの?」
「俺?」
首を傾げる気配とふわりと肩口の紅い髪がアニスの頬をくすぐる。
そうだなぁ。そう呟いたっきりルークの返事は返ってこない。やっぱりナタリアと結婚して王様になるって、決まっていたからなのかな。そうぼんやりした頭の中で考える。
「まだ、わかんぬぇ…かな」
「そうだよね。ルークまだ7歳なんだもんね」
言ってみたらすとん、と胸の中に落ちた。
長い人生の中でなりたいものなんて、13年生きてきたアニスにだってわからない。だったら、それこそ7年を王様になるのだと信じてきたルークがその他の選択肢を考えた事なんてなかったのだろう。
そしてたぶん、それはイオンも同じだったに違いない。
「ねぇ、ルーク」
「うん?」
アニスの小さな手のひらがきゅ、とルークの背中のシャツを握り締める。
「なんになりたいか、決めたらきっと教えてね」
囁くような声で耳もとに語りかけた。
「勿論。一番最初に、だろ?」
共犯者のような笑みに、アニスは暗茶の瞳をゆるませて微笑んだ。


 らり