無言のまま中庭へと続く扉を押し開ければ、暑い季節の白いひかりが世界を包み込んでいた。 一歩、二歩、と石段を降りてようやく砂地に足をつけたとき零れ落ちるようにルークの唇から言葉が漏れた。 「母上…」 ため息に似た言葉には明らかな躊躇いが含まれていて、沈黙を守ったまま側につきしたがっていた仲間たちはそっと視線を交じらせた。 地面から湧き上がる熱気を生み出す太陽のような真っ赤な髪をした従弟が心痛めているのは、先ほど見舞った彼の母親についてに違いない。 まだ7つにしかなっていないルークにとって、自分の母親の具合など考えた事がなかったのだろう。 体が弱いことや、薬師や治癒師がちょくちょく顔を出していたのは知っていても、一度も説明すら受けたことのない病状など彼には計り知れなかったのではないだろうか。 その上、自分たちの行動の一端が薬の原材料の入手を妨げていることなど思いもしなかったはずだ。 否、年上であるはずの自分も彼のお守り役であるガイも、最年長であるジェイドですらそんなことには気がつきもしなかったのだ。(もしかしたらジェイドは知っていたのかもしれないが、かの人は多きを助けるためなら少なきは切ってしまうような冷徹さを持ち合わせているのではっきり言ってナタリアにはそれこそ図りきれない) だが。 ナタリアは青い瞳と金色のまつげを押し上げて、燃えるような赤い髪を見つめながら思う。 叔母が寝付いてしまった原因は、それだけではないのだろう。 ジェイドが見立てたとおり叔母の薬は滋養強壮の意味合いが強いものだ。だとすれば、目の前の従弟が思い悩んでいる通り、心労の原因はルークがレプリカであったこと、本当の息子はダアトで六神将としてまったくの別人として生きていたことに他ならない。 チクリ、と自分の胸も痛んでナタリアは震える金の扇を閉じた。 「…ごめん、なさい」 口の中でくぐもった小さな囁きだったが、直ぐ側に立っていたナタリアには真夏の庭を渡る風の音よりも、遠くさんざめく声よりもはっきりと耳に届いた。 反射的にルークの真正面に向き直る。 「まぁ!なんですの?ルーク。そんなに暗い顔をして…そんなでは叔母様も元気が出せませんわよ?」 低く一段だけ残っていた階段を飛び降りて白とも、蜂蜜色にも見える陽光の中に降り立つと不安げな従弟の顔を覗き込む。 屋敷に軟禁されていた頃は、色も白くて剣術は習っていたけれど今よりもずっと細くて華奢に見える少年だったような気がする。女の子のようとは言えなかったが、もっと形容しがたい儚さがあった。 けれど旅をして、日焼けて筋肉がついて伸びやかに変わった従弟の姿は記憶の中のどんな『ルーク』とも似ていない。 「だって、」 「だぁって!じゃありませんことよ」 俯いたままのルークに対してナタリアはわざとらしく偉ぶるように、細いあごを突き出して腰に手を当てて見上げた。 気弱な彼は好きではない。 もっと強引で、自ら路を切り開いていくようなひとが好きだ。 それが誰を指しているのか解らないわけではなかったが、ナタリアは確かに今目の前に立つ従弟にも好意を持っていた。 その好意に別名はないが、決められた運命のままかの人ではなく目の前の従弟と結婚したとして、一生をかけて伴侶としてなら生きていける。そんな穏やかな好意がナタリアにはあった。 ただ、かの人と違ってルークが好きなのは自分ではないということを差し引けば。だが。 「ねぇ、ルーク。わたくし世界を幸せにする方法を知っていましてよ?」 ずるいと思いながらナタリアは桜色の唇で弧を描いて、ルークの手をとる。 元気を出して欲しいと思った。 それはこの場に居る全員の願いのはずだ。皆、それぞれが別の角度からずっとルークを見てきたのだ。皆、何かしら感ずいているのは確かだった。 前だけ見ていた彼が、時折心の闇に沈みこむように美しく焦がれた新緑の瞳に翳りを浮かべているのが心苦しかった。 本当はこういう役目を担うべきなのは、ティアなのだという思いもあったし、出すぎた真似をしている自覚もある。 だが、ずっと側に居た自分ではだめで後からやってきた年下の少女には出来てしまったという嫉妬もあった。 この光の庭でルークと自分とガイと三人だけで大人になりたかったのだ。けれど同時になんにも知らないルークを外に連れ出してやりたかった。 そのどれもが叶わないまま。 間の開いてしまった会話にルークは、困ったような期待のような混沌とした瞳をナタリアに向けている。 そう、帰ってきたばかりの彼はいつもこんな瞳をしていた。 「ルーク。あなたが笑うことですわ」 うっとりと呟いた言葉にルークは返す言葉を失う。意味を諮りかねているのだ。 「わらう?」 鸚鵡返しに聞かれ、困惑しきった笑みを浮かべるルークにナタリアも周りに居た皆も笑みを返してやる。 「そうね…お母様も、みんなも。誰かが哀しそうにしているのは嫌ね」 ティアの躊躇いがちな声を聞きながら、あの人はこんな戸惑いを感染させるような弱く震える心を誰かに見せることなんてないのに。 そこまで考えてナタリアは、はたと気がつく。 自分はずっとかの人と従弟とを無意識に見比べていたのではないだろうか。全く別の人間であると認識していながら、同じ『ルーク』という外枠だけを見てその中にはまるべき中味を探してたのではないだろうか。 その言葉はナタリアの中で収まるべきところにストンと嵌ったような錯角さえ覚えた。 直ぐ側で、ルークに語りかけるティアの声がする。 いつも言葉少なで、ぶっきら棒で自分の気持ちを口にするのが下手くそな朴訥とした印象すら覚えた彼女の声が、今は慈愛に満ちた母親のようさえ感じる。 「ね。ナタリア」 大人びた笑顔がナタリアを振り仰ぎ、側に立つルークの頬に僅かに赤みが差している。 「そうですわ。ルーク、今度から叔母様にお会いするときはどんな時でも笑顔でなければなりませんわよ」 常と変わらないふりをして、年上ぶって見せれば今度こそルークは笑いながらしかたねぇなあ!なんて大きく頷いて見せた。それこそ、世界を幸せにしてくれるような満面の笑顔で。 「そうそう!その調子!」 アニスが最後の励ましの声をかけると、暑い日差しに満たされた庭の片隅が穏やかな雰囲気に変わっていった。 本当は、嫉妬など出来る立場ではなかったのだと今ならば思う。 自分が求めていたのは記憶と少女じみた理想が作り上げた『ルーク』という入れ物だったのだろうとも。 けれどあの日まで確かに、ナタリアはティアに嫉妬していた。嫉妬という確かな名前の感情ではなかったけれど。あの感情を形容する言葉はほかにはない。 あんな風に誰かを変えられるほどの恋をしてみたかったのだ。 それは幼すぎて今なら泣き笑えてしまえそうなほどに幼稚な、憧れ。 「わたくしの幼さ故にあなたを傷つけていたのですわね…」 青い、従弟が美しいと形容したバチカルの空の色のドレスを翻してナタリアは目の前の小さな、けれど高価な石で形作られた墓石から後ろに立つ赤い髪の青年を見上げて呟いた。 彼は少しだけ首をかしげたが特別何も言わなかった。 もしもあの頃に戻れるのなら、あの時あの場所にいた皆を抱きしめてやりたい衝動に駆られる。平等に愛されるということを教えてやりたかった。 だが、もうそれは叶わぬ夢。 「愛していましたわ」 「俺も、ナタリアが好きだった」 「そうですわね。きっとわたくしたちは良い伴侶になれた」 「あぁ。そうだな」 「次はどこへ?」 青年を覆うマントが空の近い風に乗って翻る。 あんなにも焦がれた新緑の瞳が、近すぎる空を捉えたまま『ダアトへ』とだけ呟いた。 ダアトにはティアとアニスがいる。 きっと彼は一番最初にティアに会いに行くのだろう。 胸のどこかで懐かしいチクリとした痛みが甦る。だがそれは心を刺す痛みではなくて感傷に似ている。 ナタリアは口紅をのせた美しい唇で弧を描く。 「そんな顔では、皆が悲しみますわよ」 その声に、青年は複雑そうな顔で微笑んだ。 |
真 夏 の 庭 |