Diamond Ф Bangle

真夜中のデッキ。
手すりにもたれるように風を受けて、暗い海面をのぞき見る。
他の船と海上で接触しないようにするために掲げられた小さな音素灯が発する光で、海面には黒の濃淡が船の形を浮かび上がらせていた。
自動操縦で進むアルビオールは、波を切る音以外しんとしている。ポケットから懐中時計を探り当ててぱかん、と開けば時刻は午前2時半。みんな、夢の中の時間だ。
見張りが必要なわけではない。
タルタロスのような大きな船なら別だが、アルビオールのような小さな船をこの深淵のような暗闇の中から探し出すのは困難だから。と驚くナタリアの肩をガイが叩いていた。
アリエッタのお友達は?そう見上げるように問いかけたアニスにはティアがアリエッタが操る魔獣のタイプはみんな、夜目が利かないの。…夜目が利くものもたくさんいるけど、そういうものたちは戦闘には向いていないのよ。
襲われたくもないし、戦いたくもないの。
彼らは弱いけれどそうして生きていくことを選んだ生き物なのだわ。
ティアが困ったように笑って、真っ直ぐにルークを見た。ルークには何故そこで見つめられたのか、分からず小首をかしげた。
それからそれぞれ、宛がわれたベッド代わりのシートへ毛布を巻きつけて背中をあずけた。
ルークも皆に習って、薄い毛布を二重になるようにぐるぐるとその身に巻きつけたけれど予想以上に足先が冷えたので、一度毛布を巻きなおした。そのときはまだ、ジェイドやガイも起きていてガイが勝手に作りつけた読書用の小さな灯りが点り、窓の外の零れ落ちそうな銀色の星の数を減らしていた。
足元が暖まれば眠気がやってくる。
堅いシートも波に揺られる気配も、気にならないほどの強い眠気。
そういえば今朝、日が昇るか上らないかの朝焼けの頃にケセドニアを出発したことを思い出した。補給に寄っただけなのだから長居は無用です。その言葉にルークは砂漠の砂山の向こうから今にも飛び出しそうな、金色の朝焼けに背を向けた。
本当は砂漠を染め上げるひかりを見ていたかった。
ふいに目が覚める。
自然に目が覚めたというよりは怖い夢を見てしまったときに似た感覚。違うのは追われたり走ったりしていないから心臓がいつもと同じようにゆっくりと時を刻んでいるということ。
よくよく暗闇に慣れてくれば、眼鏡を手に握ってたままのジェイドやトクナガを抱き枕代わりに抱きしめるアニス、肌寒いのか体を縮こまらせたティアたちが見えてくる。
みんなよりも実年齢が下だからなのか、体力がないからなのか、ルークの夜は早い。
きっとこんな風に、夜が遅いジェイドやガイに寝顔を見られているのだと思うと苦笑が零れた。よだれ、こぼして寝てないといいな。無意識に自分のあごに手のひらを這わせてべた付かないことを確認した。
船底から海水で冷やされる床は、ひんやりとしていて少し肌寒い。
ふるりと子猫のような身震いをしてルークは静かに部屋を出た。デッキに出れば、羽織っていただけの上着ははためき茜色の髪は巻き上げられる。強い、風が吹いていた。
けれど波は思ったほど強くはなく、見上げれば上空の一番高いところの雲だけがめまぐるしい速度で海を渡っていく。
空は星に埋め尽くされていた。
ルークは星座を知らない。星座、というものは何となく知っているし概念的にどのようなものかと問われれば空の星をむかしの人間が好きなように結んだ、好き勝手な形。そう応えるだろう。だが、ルークはその結ばれた形を知らなかった。
屋敷に居た頃見上げた空は、半円だった。
屋敷の庭と建物の形に切り取られた半円。
一度だけ、母上にねだって買ってもらった星座の本は早々に部屋の隅に打ち捨てた。屋敷の庭から見る夜は、本の半分も星が見えなかった。屋敷中は夜半になっても防犯や人の出入りがあるために煌々と音素灯が灯されたし、隣接するバチカル城に至ってはファブレ家の比ではなかった。
見えるはずの星は消され、手を伸ばしても足りないほどの広い空は与えられなかった。
だからルークは、星座をひとつも知らない。
今、腕いっぱいよりも広い空の下で指折り知っている正座の名前を挙げていく。ブウサギ座、ローレライ、導師座、剣座…それからええと。もう名前は出てこなくて、ユリア座とかありそうだけど。と思うが確信は無いまま。
少しだけ、もっと名前を覚えておけばよかったと悔いた。
手持ち無沙汰に星空を見上げる日がくるなんて思っていなかった。あのまま半円に満たない檻の中で死んでいくのだと思っていたから。否、そうなるはずだったのだ。
くしゅん、小さなくしゃみが漏れた。
ポケットから懐中時計を探り当ててぱかん、と開けば時刻は午前2時半。そろそろ戻って横にならならなければ明日に支障を来たす。くるりとデッキに背を向けようとしたその時、目の端に青い光が映った。
生まれたばかりの星の青白い光とか熱すぎる青い炎に良く似たゆらめきの光。
慌ててもう一度手すりにつかまって海面を凝視した。
先ほどは気がつかなかったが、アルビオールがかき分けた波が青白く儚いひかりを放っている。よく見れば船壁に当たる波すらもひかりを帯びていた。
「わぁ…!」
「夜光虫ですねぇ」
「やこうちゅう?…ってジェイド?!」
背後からかけられた声に、これまでしぶとく規則的な心音を響かせていた心臓がどきりと跳ね上がった。驚いた。
「どうして、ここに?」
翡翠の瞳を見開いて問えば、トイレにしては遅すぎますからね。よもや船から落ちたのかと思いまして確認に。まぁ杞憂だったみたいですけどねぇ。深いため息とともにそういうとジェイドはにこりと口元を笑みの形に変えた。
「ほら、冷えてしまっているじゃないですか」
几帳面に畳んで腕にかけていた毛布を広げてルークの肩に巻いてやる。本人すら気がつかずにあわ立っていた肌を覆い隠せば、無意識に安堵の息をついていることに気がついていない。
「戻りますよ?」
「…うん」
「不満そうですね」
言われてルークは不思議そうな顔でジェイドを見上げた。両手で前にかき抱いた毛布と相まってそれはどこか打ち捨てられた子猫を思い出させた。こういうとき、この子どもは確固たる欲望や望みを持っているのだが、不運なことに無自覚なのだ。
何かをねだった事が無い。
何かを渇望したことが無い。
いや、それを口に出した事が無いのだ。欲しいものは言う前に与えられ、不満しか口にしない生活。それがこの子どもの人生だった。そう、ほんの少し前まで。
「望みがあるのなら、口にしなさい。全てが叶うものではないだろうが、黙っているよりはよっぽど近づく」
子どもは逡巡するように、口を開いたり閉じたりしてやっとか細い声でまだ見ていたんだ。そう呟いた。
「何をですか」
「やこうちゅう」
今度は迷わずはっきりと子どもの唇が動いた。
口にしなれない言葉は借り物のように子どもの唇を上滑ったが、許しを得る前に身をひるがえしてもう一度海面を覗き込んだ。
手すりから届くはずなどない腕を伸ばし、指先に弾けた汐の雫を浴びる。
けれどその海水は光の中から飛び出してきたはずなのに、ルークの指先についたのは透明な夜の縁を写し取った雫だけだった。
「…夜光虫とは。海水の中に住むプランクトンの一種で、船の航行や波打ちの刺激を受けると青白く発行する、目に見えないほど小さな生き物のことです」
「本来温かな。そう、ラーデシア大陸付近から流入する温かな潮の流れに沿って見られる現象なのですが―――ここは潮の流れが複雑な海域ですから、きっと潮流が流れ込んで一部分だけ海水温度が高くなっているんでしょうね」
かつん、とブーツの踵を響かせてジェイドが隣に立つ。
一部分だけ、その言葉を裏付けるように青白い夜光虫の波はどんどん少なくなってきている。ジェイドの言う温かい潮の部分を外れようとしているのだろう。
「じゃぁ、ここで見れるのは奇跡みたいなもんなんだな」
「いいえ。考えうる可能性のひとつの具現です」
夢がないな、と肩越しに見上げたジェイドも僅かに瞳を細めて消え行く青白い波を見つめている。
その真っ直ぐな視線がこの青白い光になにを思っているのかなど、ルークには想像が付くはずもなく改めて手すりに体を預けて消え行く一筋のひかりを追った。
「さぁ。夜光虫も見えなくなりましたし、もう寝なさい」
「うん」
促されるように手すりから身体を放した瞬間、ぱかん。と軽い音をたててルークのポケットから懐中時計が零れ落ちた。幸い、海に沈むこともなくジェイドの足先で地上に止まったそれを拾い上げれば規則ただしいゼンマイ音が聞こえてくる。
「壊れませんでしたか?」
そう問いかけられ、ルークはぱかん、と懐中時計を開いた。時刻は深夜の2時半。
「…壊れ、た?」
「?時刻は合っていますよ。動いていませんか?」
ジェイドもポケットの中に忍ばせている小型の時計を開いて時刻を確認しあう。確かに2時半。
おかしいな、と思うが暗闇の中で見たから時間を読み間違えたのかもしれないと、ルークは大丈夫。そう答える。
明日の朝になっても動いていなかったらガイに見てもらおう。きっと喜んで分解して、きっと壊れたゼンマイのひとつでも見つけてくれるだろう。そして、次にシェリダンやグランコクマの大きな街に行ったときに代用になる部品を買い付ければいいだけだ。
きゅ、と手の中に金色の懐中時計を握り締めた。
「大丈夫なら早く寝るべきです」
ジェイドの言葉にルークはうん。と小さく同意の頷きを返す。
デッキから客室へ下る小さな暗い階段を下りて、木製の扉を開ける。深淵のような暗い部屋の中に入る前に後ろを歩いていたジェイドに小さな声でおやすみなさい。そう呟いた。
声は届かなかったかもしれない。
でも星や月を浴びていたからくちびるくらいは読めたのだろう。ジェイドは儚い光の逆行の中でええ、良い夢を。そう呟いた。