Diamond Ф Bangle

「ええーっまたぁ?!ルークてば最近毎日じゃん!」
盛大なため息とともに吐き出された言葉に、彼の使用人は眉を下げて弁護する。
「ほら…ルークも色々悩むことがあるんだよ」
大目に見てやってくれ。暗にそう告げられ、少女は唇を尖らせる。
「ぶーぶーアニスちゃん的には食事当番さえちゃんとやってくれればいいんですぅ。ルークこの間もサボったしぃ!」
「そうね…今の彼には難しいかもしれないけれど、決めたことを守れないのは困るわ」
「ええ。それに体を動かしている方が嫌なことを考えずにすみますのに」
全員の口からため息が漏れる頃には、夕刻の食堂は話題の中心であるこどもと同じ色に染められていた。
「毎日、この時間ですの…」
聖獣の仔どもが窓枠越しの茜を見上げる。まぶしく温かな光は傾きながら明日もいい天気であることを知らせている。明日も旅路は順調に進むのだ。
「わたしが呼んできましょうか?どうせもう夕食です。誰かは呼びに行かなければなりません」
年長者の申し出にこどもの使用人だけがひどく慌てたが、とめるまも与えずにジェイドは食堂をあとにしていた。
東に面した廊下はすでに蒼い夕闇が訪れていて、早々に点けられた音素灯が柔らかいひかりを放っていた。マルクト軍の制服は夕闇の色であると笑うのは我が皇帝陛下であったが、どうにもこどもはそれが気に入らないらしい。
確証こそないがこどもがこうして部屋に閉じこもるのはいつも、蒼い夕闇が訪れる時間なのはわかっていた。けれども彼の使用人である青年が首をひねるように、こどもがうれしそうに仲間と呼ぶ間柄の誰もが理由というものを知れないでいる。
軋む階段を上り終えれば、こどもへの障害は安い扉を残すのみ。けれどこれが予想以上に強固で、満足な鍵すらついていないにも関わらず誰もあけることが叶わないで居るのだ。

コンコン。拳から生み出された音は軽い木の扉をやすやすと通り抜けて、ルークの耳に届く。
反応のない室内に深くため息をつく音まで聞こえてくるような錯覚を覚える感覚をあけて、再び安いドアが揺れた。
「ルーク…どうしたんです。具合でも悪いのでしたら――――」
「なんでもない!」
予想外に強い声が響いて、ルークはきゅっと指先を胸元に抱きこんだ。
金茜に染まる部屋は二階にあるだけはり、見晴らしが良く気に入ってた。買出しや準備のためにもう5日ほど滞在しているのだが、まったくと言っていいほど飽きがこない。朝も夜も昼も。太陽のひかりが淡くさしこみ金色、白色、赤、闇と部屋の色が染められ変わっていくのはわくわくしたし、何より西向きであるから茜の世界に同化していくような錯覚が気に入っていた。
自分の髪の毛と同じ色の世界。
白い指先すら血色を帯びてこの世界の一部になるような安心感。
けれどはじめてその楽しみを見つけたときに、本当に自分の指先が薄くすけていたことに気がついたのだ。愕然とした。細胞同士をつなぐ音素が乖離しやすくなっていてやがて自分は世界に消えるのだと、やっとどうにか、納得したというのに。本懐も遂げぬままに消えるのかと思えば恐怖すら覚えた。
けれど、日が沈み朝がくれば元通り。
「ルーク、」
戸惑いがドアに滲んで、かき抱いた指先が震えた。
当初こそジェイドに相談しようと思ったのだが、どうしてもそれをすることができなかった。子どもっぽいと言われればそれまでだが、誰にもこの薄く透けた指先を見られたくはなかったし自分では見ることが出来ない場所―――例えば髪の毛や瞳など―――も透けていないという保証もなく、鏡を見ることすらも恐ろしい。
そして。なによりそれを話したときのジェイドの罪の色を映した顔を見ることなど耐えられるわけがなかった。
「ルーク。ここを開けなさい。…隠してもわかることです」
「知ってー…」
いるのだろうか。今までも嘘や隠し事はジェイドには通用しなかった。
「そうだよな。知ってるよな…」
ジェイドだもんな。知らないはずがない。ひとり呟いて半身以上を地平の底へ静めても茜を放つ空を見つめ、椅子の上に小さくしていた体を尚も小さくちぢこめる。
指先は相変わらず肥大していくような拡散していくような、自分の境界が曖昧になっていく感覚が絶えず続いている。きっとまだ薄く透けたままなのだ。
「でも、まだだめなんだ。もうすこし」
「ルーク?」
独り言が聞こえたのか、扉の向こうから声が響いてルークは薄く笑う。
こんなうす切れ一枚の扉に鍵などかかってはいなかった。扉の前に椅子を置いてその上に自分が座っていたけれど、扉と椅子の間には部屋の中を。あの金茜に溢れる世界を覗き込むには十分なほどの隙間が開くはずだった。けれど誰も扉を開けてみようとはしなかったから、鍵がかかっているのだと信じているのだろう。
それだって、力ずくで開けようと思えば譜術でもなんでも使えばよかったのだ。それをジェイドが出来ないのは物を壊す罪悪感などでなく、相手の心へ踏み出すことが出来ないからだ。ずっと感じていたのだ。お互いがお互いへの関心を高めるにつれ、ジェイドは誰の心の中にも踏み込むことなどできない。そんなことをするはずがないことなど最初から分かっていた。
分かっていたけど、この扉が開けばいいのにと思う。
あいたらきっとその罪の色に嫌気がさすくせに。
開いたらきっとジェイドが消えかけた指先ごと抱きしめてくれるのだとしても。その色はルークを喰らい尽くすに決まっている。
ひかりが急速に収縮して闇が広がっていく。部屋の中も外も、どんどん闇が支配してベッドの上に散らけたままの日記帳も羽ペンも、音素灯がなければみつけられなくなるだろう。
そうしたらジェイドの目にもすけた指先など見えなくなるだろう。
だから、
「ジェイド、」
「はい?」



――――――夜がくるまでまって。