それは一瞬の出来事だった。 ぬかるんだ地面に動くたび足が重くなる。泥をはんだブーツは少しずつ踏ん張りを失っていく。 ゼロスは不穏な足元に大きく動くことは早々に諦めて、できるだけ後方と前衛の間を陣取り詠唱の準備をする。この位置ならば万が一にも前衛を突破されても、自分がなんとか剣で応戦できるはずだ。それに後方支援であるリフィルたちに直接攻撃が向く前にワンクッション置くことが出来るギリギリの配置。 ロイドくんの首筋から風にはためく長い飾り紐の軌跡を鋭い視線で追いかけながら、早口に唱えていたライトニングを発動させようと狙いを定めた瞬間。 鈍い衝撃とともにゼロスの体は思いっきり後方へと吹き飛ばされた。 前衛の攻撃をかわして、長い尻尾があたりを一掃するように動いたのに当たったのだ。咄嗟に助けを求めるように剣を持たない左手を伸ばす。しかし憐れにも自分の体が飛ばされたことで舞い上がった泥を掴んだだけで、スローモーションのようにゆっくりと世界が反転していく。 遠く悲鳴のような声とロイドくんの驚いたような顔とか、それから雨がやんだばかりの高く澄み切った青い空が見えるて。ばしゃり、と嫌な音が耳元で響いた頃には完全に気を失っていた。 *** 気がついた時には、暗い部屋の中で再び降り出したらしい雨粒が流れていく窓を瞳で見つめていた。 部屋の中には誰かが居て、先程から誰かを気遣うように絞られた声で会話が進んでいく。医者には見せたけれど体に異常はないだとか、治癒術をかけてみたけれど効果がないとか、ボソボソとした会話には冗談も華やかな笑いも挟む余裕がない。 誰の話をしているのかはわからない。 テーブルのまわりを囲む顔ぶれを見て、あぁ俺も参加しないといけない。とは思うのだが、何の話をしているのかも誰が話し合っているのかも上手く理解できないのだ。というかそもそも己が誰なのかもわからないのだが、頭の中でそれは疑問として浮かび上がるだけで霞がかかった記憶はそれ以上前にも後ろにも進まない。 おかしいな。ということは判るのだが何がおかしいのかは、さっぱりわからないのだから考えたところで仕方がない。ただ、何かを思い出そうとするたびに霞がかった頭に青空と悲愴な叫び声だけが頭の中で反響するように響くのだ。 『彼』が呼んだのは誰かの名前だったような気がするのだが、わぁん、とと高い天井に響いてしまった音のように残響だけを残してやはりそれも思い出すことが出来ないのだ。 強い風が吹いて、目の前の窓ガラスを揺らす。その音に驚いたようにテーブルを囲んでるうちの一人がこちらを向いた。その鳶色の瞳に惹きつけられる。 それは相手も同じようで、一瞬の間を置いて彼は呟くように喉を震わせた。 「ゼロス…!」 「…ロイド、くん?」 男にしては長い睫毛を瞬かせてもう一度鳶色の瞳を見つめると、するりと彼の名前が口をついて出てくる。同時にそれまでどんなに考えても思い出すことの出来なかった、様々なことが溢れ出した。 「俺…攻撃くらって…っ!」 慌てて攻撃を受けたはずの右肩からわき腹のラインと、倒れて出来たはずのかすり傷を確認しようと手を伸ばす。けれどそのどこにも傷はなく、打ち付けたはずのわき腹が痛むこともない。 そんなに思いっきりくらわなかった…? 内心あれだけ飛ばされたのだ、そんなわけはない。とは思うのだが現に体には傷も痛みもないのだ。まぁ、どうしてぼんやり窓辺に立ち尽くしているのかは今もわからないままだが、それでもどうやら無事であったことだけは確かのようだ。 「ゼロス、お前…」 「何を言っているの?ロイド」 ほっと胸を撫で下ろすゼロスに向かって、戸惑ったような声をあげるロイドを更にいぶかしむ様なリフィルの声が被る。他の面々も同じようで、みな不可解そうな顔でゼロスとロイドを見比べている。 なんのことかと、首を傾げればテーブルの側に立っていたプレセアが呆然とこちらを見つめる緋色の袖を引いた。 「ゼロスくんはまだ、ベッドで寝ています」 感情の薄い声がそう告げれば、全員が確認するように据付のベッドへと視線を向けた。つられるようにそちらを向けば、白いシーツを染め上げるように散らされた赤い髪の青年が横たわっていた。 薄いまぶたは閉じられて鏡越しにも見たことがないような血色の悪い顔をしてはいるが、まぎれもなく二十一年間自分が自分として見続けてきたゼロス・ワイルダーという男の姿だった。 「俺…?」 愕然とするよりも得体の知れない気味の悪さが勝ってしまい、思わず強く唇を噛み締めた。 「先生、ゼロスがそこに…窓際に立ってるんだって!誰にも見えてないのかよ」 「…何を言っているの?ロイド、わたしには何も見えないわ」 中途半端に椅子から立ち上がったままのロイドから焦れたような声があがる。今にも地団太を踏み出しそうなロイドの苛立ちにどこか自分の毒気を抜かれてしまい、ゼロスは深いため息をついて肩の力を抜いた。 己の姿が見えているとか見えていないとか、自分がもう一人ベッドに横たわっているだとか。そんなことは霞が取れたはずの頭で考えてもなんだかよく分からない。それにさっきからゼロスの言葉には誰も反応を返さないことを鑑みれば、姿が見えないどころか声さえ届いていないに違いないだろう。 とりあえず、リフィルさまでも誰でもいい。納得のいく説明をしては貰えないものだろうかと思いながら、いつもの癖で長い髪をかき上げようとしてその違和感に気がついた。 指先が鈍く透けている。 よく見れば指先だけではなく腕も体も足も中途半端に透けている。驚いて助けを求めるように皆を振り返る。しかし相変わらず首をかしげているばかりで、誰もゼロスの困惑に気がついている様子はない。 「本当に、見えてないのか」 ぽつりと呟くと、それまで黙って椅子に座っていたコレットが長い金色の髪を揺らして「ハイ、先生」と小さな手を挙げて発言の許可を求めた。 「あたしもゼロスのこと見えてます」 「コレット!」 「コレットちゃん!」 ふって沸いた加勢に二人の声が面白いほどに揃う。 その勢いににこりと口の端をあげて笑うと、コレットはリフィルや他の仲間たちに今自分の目に見えるゼロスの状況を説明していく。 たとえば、普通に窓辺に立っているということ。それからベッドに横たわっているゼロスにはある怪我が見当たらないということ。更には自分やロイドの目に見えるゼロスの体は中途半端に透けているということなどだ。 「さっすがコレットちゃん、ハニーとは違うわ」 「なんだよ!俺の方がちゃんと先にお前のこと気づいただろ」 「えーそうだけどー、なんていうの?やっぱ可愛い子は別でしょ?」 おどけて小さく肩を竦めて見やれば、不機嫌です。とばかりに唇を尖らせている。幼いその仕草を隠し切れないままではあるが、コレットと一緒に今の状況を伝えようと言葉をつくしてくれている。 ひとしきりゼロスを取り巻く状況説明が終わった段階で、リフィルは眉間に深いしわを刻ませてゼロスの立つ窓辺を一瞥した。 「話はわかりました。わたしの予想ではあるけれど、ゼロスはアストラル体になってしまったのではないかしら」 「アストラル体?」 「それって頭領がなったやつじゃないかい」 リフィルの言葉ではピンとこなかったゼロスは、驚いたように立ち上がったしいなの言葉であぁ。と一人納得する。確かに雷の神殿で見たミズホの里の頭領は、こんな中途半端な透け具合で楽しそうに宙を飛んでいた。 自分も同じなのだと言われると、それなら元に戻れるんだろうな。と漠然とした不安が解消されたような気がしてくる。大体、エクスフィアを使っているのだから元々体と心が分離しやすい状態になっていたはずなのだ。 「しかし、あの時は姿も見えていたし声も聞こえていたようだが」 「…神殿じゃないからかな」 神殿みたいな場所に比べたらここはマナが薄いし、やっぱりあぁいう特別なところとは違うんじゃないかな。 「可能性は十分あるわね」 コレットの見解に頷いて、リフィルは考えうる可能性を羅列していく。神子として様々な分野の教育を受けてきているゼロスが聞いても、その殆どの単語を理解することが出来ない。 「先生、だったら元に戻れるってこだろ」 焦れたロイドが子どものように問いかける。その問いは多分この場にいる全員が最も聞きたかった答えではあるが、リフィルはゆるく頭を振った。 「わからないわ。ミズホの頭領のときは、自ら体に戻ったでしょう?ゼロス、一度自分の体に戻ってみてくれない?」 「了解。リフィルさまの頼みなら何でも聞いちゃいますよ」 「…わかりましたってゼロスが」 ロイドとコレットの二人にしか聞こえない言葉を、コレットが適当に略してみんなに伝えてくれる。その声を背にゼロスはベッドに横たわる己の体を見下ろして再び顔をしかめた。 近寄ってはみたもののどうやって体に戻っていいかなんてわからない。助けを求めるように自分の姿が見えている二人に視線を送ってみる。 「近寄っただけじゃダメみたい」 「なら直接体に触れてみて頂戴」 リフィルの言葉に頷いて、ベッドサイドから自分の顔を覗き込む。あまりに近い自分の顔からめを逸らす代わりに、きつく目を瞑て額に額を押し付けた―――はずだったのだが、いつまで経っても何かに触れたような感触はやってこない。 どうなっているのかと恐る恐る瞳を開ければ、そこには木目のようなものが見えている。 「ゼロス?」 「えええ、これどうなってんの?もしかしてベッドの木目?」 慌てて体を起こしてみれば案の定、自分の肩についた筈の手は体を貫通しているし、覗き込んだ顔はどうやら自分の体を越えてさらにベッドまで半分突き抜けていたようだ。いくら心と体が分離した幽霊のような存在なのだとしても、さすがにここまでくると気分が悪い。 心の安定を取り戻そうと、居たたまれなさを覆うように笑って「やっぱ戻れないみたいって伝えてくれない?」そうひと言告げた。 「なぁ、俺が触っても触れられないのかな?」 「さぁ?でもアストラル体って幽霊みたいなもんだし、触れないんじゃないの?」 伝令を勤めるコレットをよそに、興味深そうに隣に寄ってきたロイドが試してみようぜ。と自分の手を差し出した。 じゃぁ握手でもしてみる? 互いの手のひらが交差したところで、見事にゼロスの半透明の指先はロイドの手のひらを貫通した。触れた瞬間、自分の存在の外枠をかき乱されたような奇妙な感覚に襲われる。臓腑を持たない精神体でなかったら、間違いなく胃の中味を全て戻してしまいそうな程の不快感。 「大丈夫か?」 「あ…大、丈夫」 吐くものさえないのに前かがみになって口元を押さえたゼロスに慌てたロイドが、背中をさすろうとしたものだから元に戻るまでしばらくの時間を要した。 そのあいだにリフィルやリーガルといった大人たちの話し合いは進み、最終的には十種類程度の体に戻る方法(例えば自分の体の上に横になってみるとか、眠っているからだの口を無理矢理開けてそこから体に入ろうとしてみるだとか、他にもたくさん)を試してみたのだが、結局どの方法でも戻ることは出来なかった。 「頭領に聞いてみるってのも手だよね」 ジーニアスの提案に誰もがそれしか方法はないと了承する。 それにこのまま怪我の酷い状態の体に精神体を戻すのも良くないだろうと、ミズホに向かうのは肉体の回復を待つことになった。 最終的なその予定が決まる頃には雨を降らせる厚い雲が途切れ、夜の帳を覗かせていた。 |
瞳 の 閉じる 音 |
2009年 |