Diamond Ф Bangle

 夜半にわずかな星が雲の切れ間にのぞいた。


 人々が寝静まった時刻の宿屋は、ぼんやりとした鈍い明りを幾つか燈すばかりで薄闇に包まれているようにさえ見える。その様をゆっくりと見回して、まるで幽鬼のような今の自分にはあまりにも似合いだと自嘲しながら窓枠に頬杖をついた。
 意識しなければ何にも触れられない体だというのに、こうして寄りかかろうとするときだけは何も考えずとも自然に物に触れ、感じることが出来る。
 (無意識に触れる≠チて思ってるからなんだろうけどが何だか変な気分だぜ)
 まぁ正直な話、触れられたところで持ち上げることも窓を開けることも出来ないのだからさして意味のあることではない。だがそれもアストラル体として生命維持に必要な欲求を感じることがないから問題に感じないだけで、もしも普通に腹が減るのに何にも触れられないなんて考えただけで悪夢だ。
 小さく嘆息して、暗い部屋の中を見回せば二つあるベッドのひとつに横たわって薄いまぶたを閉じたままの自分の姿が目に入った。
「……いつ見てもぞっとしねぇってな」
 吐き捨てるように、白いシーツを染め上げる赤い髪の毛を一瞥する。整った顔立ちをしているのを否定はしないが、それでも血色のない頬は赤い髪と明確なコントラストを構成して、一層死人のように見える。
 死んで自分の枕元に立つ日がくるなら、こんな気分だろうか。
 いい気分でこそないが、こんな未来もありかもしれないと頭の隅で思う。神子でない未来のそれは、いつも数少ない選択肢のひとつとしてゼロスの頭の中にあったことだ。
 けれど、ロイドくんというたった一人の手放すことが出来ない相手を手に入れてしまった今となっては、決して選んではならない未来ではあるのだけれど。

「眠れないの?」

 ぼんやりと物思いにふけっていたゼロスに背後から聞きなれた声がかけられる。驚いて振り返れば、そこには金色の髪をゆるくふるわせた少女がひとり。
「コレットちゃん」
 暗い部屋の中から名前を呼べば、もう一度眠れないのかと問いかけられた。
「俺さまの体はずっと寝っぱなしだからねぇ。それにアストラル体ていうの?これだと腹も減らないし眠くもならないのよ、これが」
「そっか」
 おどけたように肩をすくめて応えれば、コレットは無防備に薄い夜着のまま神妙な顔で頷いた。
 その薄い布越しに見える痩せた肩から胸のラインを追いそうになるのをコレットへの見当違いの苦言を繰り返すことで必死に押さえる。こんな最低限の明りしかない部屋で、そんな薄着のまま男の前に現れたらだめでしょう。とか、こんな夜中になにやってんの等々。色んなことが言葉にならないまま頭の中でぐるりとまわる。
 でも、結局、この子一応天使だし戦わせたらロイドくんにも引けを取らないくらい強いし。男だって言っても俺さまアストラル体で触れないし、まぁいいか。そう思い直してゼロスは幾度目ともしれないため息と共に肩の力を抜いた。
「…夜眠れないと長くて退屈だよねぇ。はじめはみんなの寝顔とか見れるし、寝ずの番もしてあげられるしちょっと便利だよね。って思ったんだけど、やっぱり退屈なんだよね」
 裸足の足が暗い床を踏んで、昼間みんなが眠ったままのゼロスを囲むように座っていた椅子に腰掛ける。
「それって、天使疾患ってやつで…?」
 ふと、浮かび上がった疑問を問えば僅かに伏した金色の扇の下で戸惑うように空色の瞳が揺れた。
 コレットが天使疾患によって少しずつ感覚や感情を失って、最終的にはマーテルの器としてただの人形のようになってしまったのは記憶に新しい。というか、ゼロスと出会ったばかりのコレットがまさにその状態だったのだから忘れようと思っても忘れられるものではない。
 ましてや同じ神子としてというよりも、生まれた世界が違ったらそれは自分の姿だったのかもしれないのだ。どんな世界でもみ子になんて生まれるものじゃない。
「でもね。今はちゃんと眠れるから」
 きゅ、と無意識に彼女の手が握り締められたのは不恰好な金色の要の紋。ロイドくんが彼女の為に手ずから造ったそれは、今でも彼女を不条理な現実から守っている。
「…俺さまにもロイドくんが造った要の紋みたいなものがあったら、ちゃんと元に戻れるのかね」
 決してそんなものでアストラル体から解き放たれる訳などないことぐらいわかっているのだ。それでもどこかで、ロイドくんが造ったものがコレットを救ったという事実が羨ましい。
「明日、ロイドにお願いしてみようね」
 まるで子どもを諭すように、眉をさげて笑った口から小さなあくびが漏れた。
「…そういえば、どうしのよ」
「うん?」
「悪い夢でも見た?」
 今更すぎる問いを誤魔化すように口にすれば、小首を傾げるように口の端をあげるだけの笑みが返される。そのまま何かを言おうと思ったのか、僅かに口を開くが一度も喉を震わせることのないまま閉じられてしまった。
 けれどすぐにテーブルに置きっぱなしになっていた水差しから、小さなグラスへと水を注ぎいれて「お水のみに来たの忘れてた」そう呟いた。即座に嘘だ。そう思うのだけれど、これ以上どう切り込んでいいのかわからずに適当な相槌をうつ。
「あのね、ゼロス」
 再び訪れようとした沈黙を破るように、水の入ったグラスを持つ手に力をこめて空色の瞳がこちらを真っ直ぐに見上げた。
「眠れない退屈な時間はね、空の星を数えるといいんだって。満天の星はひとが一生かかっても絶対に数え終わるようなものじゃないし、ほら。季節が変わったらまた見える星座も違うもん。やってみると意外に楽しいよ?」
 星。とつぶやいて結露に濡れた窓の隙間から夜空をのぞけば、知らぬ間に雨はなりを潜めたらしく雲の切れ間には幾つかの星たちが輝いているのが見えた。
 きゅ、と窓ガラスの霜を払うことが出来ないゼロスに代わって窓側までやってきたコレットが手のひらと夜着の裾で冷たい結露をふき取っていく。
「コレットちゃん、夜着濡れちゃうし大丈夫だって!俺さまいざとなったらこんな壁余裕で通りぬけられちゃうからさ」
 自分の右手を目の前の壁に突っ込んで上下に大きく振ってみせた。傍から見れば壁に腕が突き刺さったか、その場所に穴が開いているとしか思えない様子に金の扇が瞬かれる。
「便利なんだね、ゼロスって」
「便利…かどうかは怪しいけどな。だってこうして物は掴めないんだし?」
 不便といえば不便よ?
 それを証明するように先程までコレットが手にしていたグラスに手のひらを通り抜けさせる。
「だから、もしも退屈だったら試してみてね」
 何度目かしれないあくびをしたコレットが、ごめん。眠い。そう呟いた。
 一瞬訪れた静寂に、時計の進む音だけが響く。無意識に音のする方を見上げてみれば、時計は夜明けまであと二時間のあたりを指し示していた。いくらこのまま、明日もこの宿に泊まることが決まっているとは言え、いつまでも起きていていい時間ではない。
「部屋まで送ろうか?」
「大丈夫。部屋まで送ってもらったなんてロイドにばれたらきっと怒られちゃうから、大丈夫」
 それこそ天使の微笑で笑った彼女の言葉に、それはどっちの意味なのか尋ねる前にコレットは「おやすみなさい」そう声をかけて部屋を出て行ってしまった。
 大して広い部屋でもないというのに、一人ぼっちで立ち尽くしていた時間よりも二人が一人になった今の方が、がらんとして見えるのは錯覚だろうか。
 ゼロスは長い髪をかき上げながら、長く嘆息した。

「天使疾患と一緒だなんて、随分なこと言ってくれるよな」

 ロイドとコレットにしか届かないひとり言をつぶやいて、先程少女が手ずから結露を払ってくれた窓越しに見える星の瞬きを数えていく。
 夜明けまであと少し。

スターリー
        ヘヴン

2009年