外は相変わらず降り続く雨と灰色の世界。 「なーゼロス」 「なによハニー」 ぷらぷらと後ろ向きに座った椅子から裸足の足がゆるく揺らしながら、ロイドが退屈そうな声を上げた。窓の外は未だに降り続く雨のせいで、風光明媚だと宿の主人が胸を張る景色はどこまでもうすぼんやりしている。 「なーゼロス」 「んー?」 みんなは買出しに出てしまって、じゃぁ今日はロイドがゼロス番だね!と楽しそうに微笑んだコレットを見送って早数時間。疲れや空腹、睡眠といった欲求を訴えることのないアストラル体にとって、昼間の数時間程度の退屈はさしたる問題ではない(だって昼間はロイドくんが相手をしてくれる)。 けれど、生身の人間であり尚且つ飽きっぽいロイドくんにとっては二人っきりでも何をするでもない時間は退屈でしかないのだろう。 というか、もう既に飽きているに違いない。その証拠にさっきからひとの名前を連呼して返事を強請っておきながら、何かと尋ねればなんでもない。と返す遊びが散々繰り返されているのだし。 「ゼロスー」 「…………」 最初こそ真面目に返事をしていたのだが、それもどんどん面倒になり最終的には黙ったまま。灰色の景色を見つめたまま一応聞いているよ。という合図に後ろに向かって右手をひらひらと振り返した。 曇った窓ガラスには明りを燈した室内が少しだけ映って見える。灰色の景色から少しだけ視線をずらして様子を伺えば、相変わらず椅子の背もたれに顎を預けて両の足がぷらぷらと揺れていた。その様子に小さくため息をつくのとほぼ同時にまた、唇を尖らせたような声がゼロスを読んだ。 「だーかーらー!なんなのよロイドくん!」 痺れを切らしてこの不毛な遊びを止めさせようと、肩に力を入れて部屋の中をふり返る。あまりの勢いでふり返ったものだから、長い髪が大きく円を描いた。 「あ、やっとふり返った」 「…それがどうしたってのさ」 不機嫌さを微塵も隠そうともせずに眇めるような目でロイドを見下ろす。だというのに彼は窓に映っていたときのような退屈に苛まれたような顔ではなく、大きな鳶色の瞳を輝かせていた。 その満面の笑みとまではいかないけれど、まるでわんこが主人に遊んで貰えるのを期待するような表情に今度は訝しむように眉根を寄せる。 「退屈だし触れないってのに、お前までそっち向いてたらつまらないだろ?」 ずっとゼロスの顔が見たかったんだ。 にかり、と歯を見せたロイドに血なんか一滴も流れていないはずの顔が熱くなるような気がして、ゼロスは慌てて手の甲で口元を覆った。一瞬、肉体の方も赤くなってやしないだろうかと眠ったままのベッドを見やる。幸いにして精神体の感情と連動はしていないらしく青白いままだ。 「ロイドくんそれってすっごい殺し文句…」 「アストラル体は殺せないだろ、たぶん。触れないし」 目の前の少年にとっての触れる、とゼロスが思うところの触れるには大きな隔たりがあることくらい理解しているつもりだ。けれど彼が自分と触れ合いたいと思っていてくれたことが純粋に嬉しいと思う。 あんまりにも嬉しくて、ゼロスは相変わらず椅子の背に体重を預けている頭に手を伸ばした。 案の定半透明の指先はそよ風のように彼の髪の毛をそよがせただけで、触れることは叶わない。けれど、めげることなく何時ものように彼の形の良い頭を二度三度と撫でる真似をすれば、くすぐったいと笑い声が上がる。 「それでハニーは触れない俺さまと何して遊びたいのかしら?」 悪戯っぽくウインクをすれば、ロイドは小さく唸ってから「話すぐらいしか出来ないもんなぁ、お前」と言葉どおり触れられないゼロスの腕にそっと手を添えた。 実際の感覚があるわけではないが、幽鬼のような体に触れられると堪らない違和感に苛まれる。その為この体になってからゼロスはなるべく誰にも触れられないように過ごしてきた。 だからロイドの指先が自分の輪郭に触れる瞬間、堪えるようにきつく瞼を閉じた。 「………?」 いつまで経ってもやってこない衝撃と寧ろ心地よささえ感じた温かさに恐る恐る瞳を上げれば、心配そうにこちらを見上げる鳶色の瞳とかち合った。 「大丈夫か?触ると具合悪くなるの忘れてて…!」 「いや、うん。大丈夫みたい」 あっという間に離されたロイドの腕を追いかけて、その指先を包むように触れる。そして確信した。自分からだろうと相手からだろうと、今日は不思議なことに触れても大丈夫であるらしい。調子に乗ってそのままロイドくんの耳元に吐息などない唇を寄せてみる。 近づくことでこちらは相手の仄かな体温を感じるが、ロイドは逆のようで僅かに透けるゼロスが動くと空気が動くのかくすぐったそうに身を捩った。 「…キスどころかあっちも出来ない相手はつまらないって?ハニー?」 「ばっ!何言ってんだよ!」 まだどこか幼さの残る頬のラインを今度はロイドが真っ赤に染め上げて、思いっきり頬を膨らませる。その仕草が彼を年齢や精神以上に子どもっぽく見せていることに本人は全く気がついていないらしい。そしてその顔が存外ゼロスの好みであるということも。 口の端をあげるだけの笑みを浮かべて、視線を合わせるように鳶色の瞳を覗き込む。絡んだ視線に声には出さずに口の動きだけで「ばーか」そう告げられた。 「…好きなときに触れられない相手なんかとっとと忘れてやる」 「おっと、それは俺さま泣いちゃうぜ?好きでこんな体になってるわけじゃないんだから」 大体なりたくてアストラル体になれるなら、世の中の研究者が泣いて喜ぶに違いない。 大きく肩をすくめて再び触れられない相手の頬の形に半透明の指先を添わせる。ギリギリ触れ合っているかどうかの距離感は、もどかしいほど確かな相手の感触も匂いさえも伝わらない。 添えられる形の手に猫のように擦り寄るような仕草を見せた彼も、きっと同じ気持ちであるのだろう。 「うわ、なんか考えてたら本気で俺さまハニーとキスしたくなってきちゃった」 記憶に残る彼の肌の感触を想像していたら、冗談ではなく湧き上がる色情に肌があわ立った。このまま触れたふりをしたまま唇を合わせてみるのも一興かもしれない。けれど本当に触れ合えばどうしようもない具合の悪さが待っていること以上に、実感を得たいのに得られないことを想像しただけで気が滅入りそうだ。 どうにも治まりそうにない気分を持て余しはじめたところで、それまで黙っていたロイドがすっくと椅子から立ち上がるとベッドに眠ったままの体に馬乗りになる。 「は、ハニー…?」 「こっちのゼロスなら触れるし、なんだってできるだろ」 俺だってずっと我慢してたんだからな、全部ゼロスが悪いに決まってる。 そう言い捨てて、細い指がゼロスの胸倉を掴むと噛み付くようにキスをされる。自分と想い人が口付けるまさにその瞬間を見るという倒錯的な状況にゼロスは思いきり目を瞑った。 *** 生暖かい舌が乾いてひび割れた唇を舐めあげて、それから触れるだけのキスをする。 幾度か繰り返されるその仕草と僅かに冷たい感触。あぁ、アストラル体でも体が感じる感触は精神体には伝わったりするんだな。なんてぼんやりと思いながら重だるいまぶたを無理矢理こじ開ければ、目の前に鳶色の瞳が驚いたように大きな瞳を見開いていた。 「ろ…?」 ロイドくん。 名前を呼ぼうとすると声が不自然に掠れてうまく声が出ない。更にはいつもの癖で目の前の頬に手を添えようとするのだが、腕を持ち上げようとしただけで右肩に激痛が走る。 肉体のダメージは精神体には反映しないんじゃなかったのかよ、と毒づくがあまりの痛みとだるさにそれどころではない。 何が起こったのだろうか。 ロイドくんの口づけで肉体の感覚とアストラル体の感覚が繋げられたとでも言うのだろうか。そんな莫迦な話、と自分の中の勝手な予想を切り捨てて、ゼロスはもう一度自分に馬乗りになったままの少年の顔を見上げた。 「お前…、」 「――っ」 確認するようにロイドの手のひらがそっと頬に添えられる。何時もとは逆の感触を楽しみたいところだが、そこにも見えないだけで傷があるらしく鋭い痛みが走った。 「戻ってる、ってわかってるか?」 「もど…?」 満身創痍と言っても憚らない状態のままゼロスはぐるりと首だけであたりを見回した。それで初めて自分が清潔なベッドに横たわっていることに気がついた。枕元には記憶どおり、紅色の髪がシーツを染め上げるように広がっているのが見える。 それは確かに先程まで同じの部屋の中で横たわっていた自分の体そのもの。 「戻ったんだ、良かったー」 ていうか何で戻ったんだ? きょとん、と相変わらずゼロスの上から退く気配のないロイドが首を傾げて自問自答するが、答えなど出るはずもない。アストラル体から突然引き戻されるように体に戻ったゼロス自身にも、その理由など検討もつかない。 ハニーのキスがきっかけ? 手がかりとして思いあたるのはそんなことぐらいで、思考の助けになるようなならないような状態だ。その上これから帰ってくるであろうリフィルたちにどう説明しようかと思い悩んだところでふと、子どもの頃に読んだ昔話を思い出して口元を緩めた。 おひめさまは、おうじさまのきすで、めをさましました。 自分がお姫様だとか言うところには目を瞑って、ゼロスは痛みで重い腕をなんとか目の前のロイドの肩に回すとそっと彼の耳元に唇を寄せた。 「もう一回キスして」 |
はじまり は くちびる |