Diamond Ф Bangle

 窓の外からは、暑い季節特有のぬるい風と高いくぐもった音が響いている。



「なぁゼロスっておねしょとかしたことあるのか?」
「はぁ?!」
「ってロイドくん何言い出すの」
 突然ふられた話題についていけずに、素っ頓狂な声を上がる。だって突然おねしょなんて、小さな子どもがいる夫婦でもない限り話題に上がることもないような単語だ。
 一体何を言い出したのかと、ゼロスは眺めていた本から窓辺に腰掛ける少年へと視線を移した。
「なんかさ。お前ん家とか見てるとおねしょして布団濡らして怒られたりとか想像できねぇんだもん」
 というか、想像しなくてよくない?
 喉元まで出かかった言葉を発するよりも前に、大真面目に語る自分の想像に納得がいったらしいチョコレートカラーの頭がうんうんと勝手に頷いている。
「濡らした布団の隣に立たされて泣いてるゼロスとかもっと想像つかねぇっていうか…なんかおねしょしてもゼロス様大丈夫です!とか言われて終わりそうだよな」
「いや、その想像あんまり否定しないけど…聞いていい?なんで突然おねしょ?」
 自分が何歳までおねしょをしていたかなんて、全く記憶にない。よっぽど大きくなるまでとか、相当こっぴどく叱られた記憶でもなければ、小さな子どもの記憶など残っているものではない。
 そうは思うのだが一々否定をするのも面倒で、そこには全て目を瞑ることにする。
「ん?あれ、見えるか?」
 指差された硝子越しの風景。
 部屋の中央に置かれたテーブルからは見えないそれに、ゼロスは億劫そうに窓辺に寄った。
 宿の二階の部屋からは、整然と並ぶ家々の合間に庭の木々や通りを歩いていく人々の姿を確認することが出来る。ぐるりとその景色を見回して、ゼロスはあぁ。と目的の場所に視線を留めた。
 宿の隣にある庭で、小さな子どもが濡れた布団と一緒にわんわんと泣いていた。
「あーあぁ、やっちまったのね」
 かわいそうに。と軽く呟いてゼロスは背に流したままだった長い髪を持ち上げる。まだ暑い季節には一歩届かないが、それでも毎日少しずつ孕み出した熱にこの髪は流石にうっとおしい。
 しいなあたりから紐でも借りてしばろうか、そう思ったところで派手色の上着の裾が引かれた。
「じゃぁさ、濡れた布団で世界地図ごっことかも知らないだろ」
「なんだそりゃ」
 どんどん出てくる意味不明の単語に思わず眉根が寄る。子どものおねしょに、ごっこ遊び。それから世界地図。ひとつひとつを単語として理解は出来てもそれを全て続けて理解することは不可能だ。
 だって意味わかんないし。
 こちらの考えがわかったのか、堪え切れなかった笑いを漏らしたロイドが鳶色の瞳を緩ませる。
「なぁ見える?あの布団」
「おねしょ布団?」
「そう。でさ、あの真ん中のでっかいのがハイマのある大陸、その左隣がイセリアの大陸みたいに見えてこないか?」
 グローブを外してある指が盛大なおねしょの染みをなぞりっていく。ハイマもイセリアもシルヴァラントの都市の名前だ。つまり、おねしょの染みが地図に見えるということなのだろう。
 やっと先ほどの単語の意味を理解したところで、ロイドがはたと主いついたように「でもここだったらテセアラの地図になるのかな」そう呟いた。
「俺まだちゃんとテセアラの地図覚えてないんだよな。なぁゼロスあの地図どっちの方に似てる?」
「似てるって、俺さまもシルヴァラントの地図には全く明るくないんだけど」
 呆れたように返せば、そうか。と一言残念そうに呟いて再び視線は窓の外の子どもに注がれる。
 どこかの神子に良く似た蜂蜜色の髪を肩口に揺らした子どもは、何時までたっても泣き止みそうにない。
「シルヴァラントってこんな形してるんだ」
 窓際に飾られた小さな花を浮かべた水盆に人差し指を浸すと、濡れた指が出窓の床に大陸の形を描いていく。
 室材に水で描かれるそれは正確な形とはかけ離れているのかもしれないが、細かな作業を得意とするロイドの指が描くそれは意外に緻密な形をしているように見えた。
「ゼロスに俺が教えられることがあるなんて思ったことなかった」
「俺さまも。ロイドくんがいくらシルヴァラントだけとは言え空で地図描けるとは思ってなかった」
「んー、リフィル先生に何回も描かせられたんだけどさ。全然覚えられなかったんだ。でもやっぱコレットたちと旅に出たら必然的に覚えたって、ゼロス先生には言うなよ?」
 らしすぎる理由に笑いながら頷けば、こんな感じかな。と半乾きの指が最後の島を描き終えた。
 見慣れない形の世界地図。
 けれど、確かに子どもの側に干された布団の染みに大陸の形が良く似ていた。その隣に同じように水盆で濡らした指でテセアラの地図を描き足していく。
 大昔世界がひとつだったころ。この二つの世界がどんな形でひとうになっていたのかなんて、誰にも分からない。それこそ世界を分けた張本人に問いただせばいいのだろうが、そんなことが出来るはずもないので適当な位置に合わせて描いた。
「こんなもん、か?」
「ほんとにシルヴァラントとテセアラが一緒だったらこんな形してるのかな」
「さぁねぇ、そればっかりはわかんないでしょ」
 世界が別たれてからは気が滅入るほど長い時間が経っている。それぞれの世界で、大陸が移動していたら例え世界の狭間をなくしても四千年前と同じ姿には戻らないのかもしれない。
 ふーん、と気のない返事をしたロイドの指がテセアラの縁を何度もなぞっていく。
 フラノール、ヘイムダール、サイバック…。
 水が伸びて肥大していく大陸を眺めながら、随分遠くまできたものだと思う。神子として城と屋敷と夜の街を往復していただけの頃とは大違いだ。
「二つの世界が一緒になったら、きっと色々大変だよな」
 彷徨った鳶色の視線が丁度、救いの塔の場所で止まる。
 ほんの数秒。その間に彼が何を考えているのかはゼロスにはわからない。二つの世界を旅してきた経験は、この子どもに何を残したのだろうか。
「ロイ、」
「なぁゼロス。もしも世界がひとつになったら、世界地図ごっこ出来なくなりそうだよな」
「へ?」
 ぱっと上げられた顔には、悲壮感も苦しさも見当たらない。むしろ新しい遊びを発見したような輝きをその鳶色の瞳に湛えていた。

「だって、こんなに複雑だったらおねしょで描けそうにないだろ?」

 返す言葉を見つけられずにゼロスは思わず淡色の瞳を瞬いた。





2010年12月再録書き下ろし