決して柔らかとは思えないベッドの中で微かな呼吸音を響かせて眠る少年の頬を手の甲でひと撫でする。 熱を持った頬はひどく熱い。 自分の手との温度差に鳶色の睫毛が微かに震えたが、目を覚ます気配は見られなかった。 ロイドが熱を出したのは大よそ二日ほど前の話に遡る。 ガオラキアの森に入った頃からけほけほと乾いた咳を繰り返していたはいたのだが、軽い症状から悪化する様子がなかったため一行の引率者であるリフィルが全員に手洗いとうがいを徹底させることで様子見ということになっていた。 ところが、二日前の夕刻。間もなく街に入れるという頃合だった。暫く続いた野宿から解放される喜びに皆の戦列が浮き足立っていたその時。 ドサリ。 重い布袋を床に落としたような音に背後を振り返れば、一瞬血かと見まごうような赤が地面に落ちていた。 「…ロイド!?」 「ロイド!」 全員が最も予想外であったその人物に意識が向いたのと同期して、視界の端に居た魔物が最後の一撃を振り上げる。咄嗟の気配に気づいた数人が振り返るが、術者を中心に構成されたメンバーでは間に合わない。 ちっ、 舌打ちをひとつして腰の剣を引き抜く。振るうには僅かにタイミングが合わずに、敵の体幹を蹴り上げてから重力に任せて切り裂いた。ぬるい体液が噴出してどさりと重い体が落ちる。 「もう、大丈夫です」 血だまりの中の体を確認したプレセアと頷き合って、リフィルの手によって気付け薬代わりのライフボトルを飲ませられているロイドの姿を見やった。 「熱ね。風邪が悪化したのだわ…すぐ宿に運びましょう。ゼロス、頼めるかしら?」 「了解ー」 呼ばれて血塗れた剣をひと振りして掃うとそっと横たわった体の側に跪く。 荒い呼吸、上気した頬。閉じられた薄い瞼。 そのどれもが常とは異なるような気がして、そっとその頬へと指を伸ばした。熱い。吐き出された息の熱さに躊躇いさえ感じて結局伸ばした指を早々に丸め込むと、抱き上げるために地面に放り出された腕へと伸ばしなおした。 意識のない体は重い。それは知識として知ってはいることだが、よもや自分が誰かを抱き起こすような場面に出くわすとは考えてみたこともなかったので実際のところどの程度力を込めるべきかを迷う。 壊れることなどないと思うのだが、それでもくったりとした少年の体は恐い。 「ゼロス、急いで」 先に出発の準備を整えた仲間の声に急かされて、多少乱暴に扱ったところでシルヴァラントの山奥育ちの野生児だ。そう簡単に壊れてたまるか、とエクスフィアのはめられた左腕を支点に背中に引き上げる。 「…かっる」 「意外に細いようだからな」 すまないな。と戒めたままの両の手を上げたリーガルに適当な返事を返した。 どうにか背に引き上げた体はリーガルの言う通り、十七という育ち盛りにしてはあまりにも細い。それでもきちんと筋肉がついているのは奇跡のように思えてくるほどだ。 「ちゃんと飯喰ってんのかよ」 思わず呟いた言葉に、いつか聞いた衰退世界の惨状を思い出してゼロスは大きく被りをふった。 *** 宿について、医者に見せれば流行性感冒だと言われて全員がほっと肩の力を抜いた。 「なんだ風邪かー、ロイドってばびっくりさせないでよ」 「なんとかは風邪を引かないってのは、シルヴァラント人には通用しねぇってことがわかったな」 「あ!ドサクサに紛れて酷いこと言ってんじゃないよ。このアホ神子」 「でも、ほんとによかったぁ」 口々に好き勝手を言い合う仲間たちの言葉をコレットがひと言に集約する。つまり、そういうことだ。まさか世界の狭間を超えてやってきた先で突然の病気になりました、では済まされない。 旅の足手まといとして家に帰すことも出来なければ、どこかに打ち捨てることも出来ないのだから。 (否、そんなことまで考えていたのは自分とリフィルぐらいのものかもしれないが) 僅かな罪悪感から目を逸らすように窓を見やる。外はいつの間にか夜の帳が下りていた。 「…まぁ、そういうわけだから二、三日はここに滞在することになるわね。いい機会だしアイテムや食料なんかの補給して、久しぶりにテストでもしましょう」 一行の教育係も兼ねているリフィルの言葉に、コレットとジーニアスがじゃぁちゃんと復習しないとだね。そう囁きあう。常なら真っ先に反対または文句を言うロイドがいないだけで、なんだかこの二人の勉強は進みそうだ。 苦笑をかみ殺して、ゼロスは「はいはーい!」と大きくリフィルに向かって手を振った。 「なにかしら?」 「誰かはロイドくんの側に居なきゃいけないわけだし、立候補しようかなーって」 「そうね、じゃぁゼロスにお願いするわ。他のみんなは明日からの買出しなんかを割り振りましょう」 そうリフィルが宣言して、さっさと役割を分担してしまえば皆ロイドの安静を邪魔してはいけないとばかりに次々と部屋を後にしていく。最後まで側に居たがったコレットをどうにか送り出してしまえば、やけにガランとした部屋の中でゼロスはほっと小さなため息をついた。 こんこんと眠り続けるロイドの額に乗せられたタオルを冷えた物に絞り替える。宿に運び込んだばかりの時には、荒かった呼吸も今は落ち着いたようだ。 「さて、と」 きっちりと隙間が開かないように肩まで布団を掛け直すと、そっと部屋の窓を開く。肌に心地よい夜風が吹き込んで、闇に紛れていた男が姿を現した。 「具合はどうだ?」 「熱が高いみたいんだと。医者は流行の風邪だとさ」 「これを飲ませるといい。二つの世界は別たれて久しい。あちらでは流行っていなかった病も多いはずだ」 白い粉が入った薬包を三つ手渡される。この男、言っていることは真っ当だがどうにもいけ好かない。大体息子が心配でここまで追いかけてくるぐらいなら、この薬だって自分で渡せばいいのだ。 このまま、窓を閉めてやろうかと思っていたところで部屋の中から魘されたような声が上がった。 「…ハニー?」 部屋の中に向けて呼びかけてみる。だが、まだ目覚めたわけではないのだろう。返事の変わりに再び魘されたような声だけが返された。 「ま、そういうわけ―――」 「手を握ってやるといい」 言葉尻に重なった低音に驚いて振り返れば、息子と同じ色の瞳が真っ直ぐにこちらを見ていた。 「なにそれ、アイツが子どもの頃そうしてやったとか言うわけ?」 ひゃひゃ、と意地悪く笑った問いに対する返事はない。だが、この場合沈黙は肯定であることは間違いないだろう。この男の中では、まだ親子三人で暮らしていた記憶は褪せていないのだ。 何千年生きたうちのたった数年のことだってのに。 「…そんなこと当の本人は欠片も覚えてねぇみたいだけどな」 吐き捨てるような言葉を投げつけて、ゼロスは古い木枠の窓を閉じる。ぎっ、と兆番が油が切れたような音を立てたが構わずに最後まできっちりと扉を閉める。 ロイドの眠るベッドの側まで戻って、そっと窓を窺えばもうそこには夜を彩る闇があるばかりで男の姿は見当たらなかった。 再び上がった呻くような声に、一瞬だけ迷って熱い指先に自分のそれを絡める。決して自分の手が冷たいわけではないのに、熱の分だけ出来てしまう温度差に閉じられた扇が震えた。 目を覚ましてしまうんじゃないかと、即座に指を離そうとすれば逆に赤ん坊のようにきゅ、と人差し指を握り締められる。それと同期するように再び深い眠りに落ちついたのか、穏やかな寝息が乾いた唇から漏れはじめた。 「なっんかすっごい癪なんだけど」 目が覚めたらハニーってば俺さまの手放してくれないんだから。そう言ってからかってやろうと心に決めて、ゼロスは反対の手のひらでそっと皇かな少年の頬を撫でた。 |
この 手を にぎって |
2010年12月再録書き下ろし |