Diamond Ф Bangle

この空の色を覚えていますか。


「空って天頂に向かって濃い色になるの、知ってる?」
まだ昼間だというのにユウマンジュのお湯をたっぷりと堪能して、他に客の居ない庭に面した涼み台をレイヴンと二人で占拠しながら酒を酌み交わす。口当たりがよく、ゆるく回っていく酒にユーリは唐突につぶやかれたレイヴンの言葉をうまく聞き取る事ができなかった。
だから、隣に座る男の横顔を見つめて小さく首を傾げれば、わずかに湿ったままの長い髪が肩を濡らす。
「だから。ね。青年、見てよ」
「何をだよ、おっさん」
「そ・ら」
「空?」
鮮やかな色の羽織を風に翻して自分の右手を矢印に、本来ならば穏やかに晴れているはずの青空に向ける。しかし星喰みに世界中の空を浸蝕された今、日の光こそ変わらずに降りそそぐものの、目に見えるのは食い荒らされたようないびつな空だけだ。
「…こんなことしてる暇ないってか?」
苛立ちや皮肉にも似た言い口にちいさなちょこの酒を勧めながら、レイヴンは深いため息をついた。
星喰みは確かに一刻も早く排除しなければならない存在だが、現実は天才少女がもう少し詳細なデータを集めるための猶予を求めたこと、それからジュディスの飛びっぱなしのバウルを少しでいいから休ませて欲しいという願いを受け入れた結果、全員でユウマンジュを満喫するに至っている。
青年の無意識に焦る気持ちは分からなくもないが、苛立ったところでなにも進みはしない。
「違うわよ。空の色、見たことある?」
「色?青いだろ。普通は」
なにを当たり前のことを。そう言いたげな相手の猪口に再び酒を注いで、レイヴンはにこりと口の端を持ち上げた。
「そうね、青ね。でも、その青色が地平線に近いところのほうが色が濃くて天頂に向かって薄色になるのは?」
「…へぇ、初耳だな」
口の端についた透明な米で作られた強い酒を真っ赤な舌で舐め上げて、ユーリは星喰みで食い荒らされた空をもう一度見上げる。
わずかに天頂から太陽が傾いたとはいえまだ昼間と言って差し支えの無い時間であるにも関わらず、星喰みに薄く覆われた視界ではレイヴンが言うところの空の色を細かく判別するのは困難だ。
以前は毎日ぼんやりと自室の窓から外を眺めていたこともあったけれど、彼が見ていたのは下町の細い道を行きかう人々や子どもが遊ぶ姿であって、決して夕闇に向かって刻々と変わっていく空ではなかった。
だから、レイヴンの言うような繊細な色の移り変わりを持つ青空を想像するのはちょっと難しい。
「星喰みが消えたら、さ。見たらいいわよ」
硬い音を響かせて、まだ酒の残る猪口を涼み台の上に置いたレイヴンが静かに立ち上がって思い切り伸びをする。
「きっと、きれいよぉ」
羽織のせいで広く見える背中を拳で二度三度叩いて、灰碧の瞳が座ったままのユーリを捕らえた。
「どうしたんだよ、急に」
「…心境の変化、かしらねぇ?」
「ふぅん?」
深くは追求せずに残った酒を一気に煽る。僅かに熱をもった眦で、常から己は二度死んだのだと笑う男の瞳を真っ直ぐに見上げる。
「そういう話はさ、カロル先生とか、いつか自分の子どもにでもしてやれよ。俺みたいないい加減な大人にしたって絶対、面白くねぇ」
大業に手を振ってつい、と逸らされた視線にレイヴンは苦く口元を歪めた。
魔導器で動く死体であるはずの己に生殖能力があるかどうかなんて考えたこともなくて、ましてやいつ死ねるか、そればかりを考えてきた自分に家族とか。これほど滑稽なものはない。
それに、星喰みが消える時は世界から魔導器が消える時だ。
無意識に左胸をかき抱いて、レイヴンはもう一度食い荒らされた空を見上げた。
「これはね、おっさんのお礼なんだからちゃんと聞いてよ。青年」
ね。と胡散臭い笑みを貼り付けて、座ったままの青年の長い指を取る。
ずっと剣を握り続けてきた手のひらは、豆がつぶれて皮膚が硬い。けれども、弓と剣、レイヴンとシュヴァーンとして両方を使ってきた己の手のひらに比べれば、随分ときれいな指をしている。
掴まれた手のひらを撫ぜられて暗紫の瞳がわずかに揺らいだ。
「礼、ってなんの」
「三度目の人生の」
きっぱりと言い放てば、気丈なほどに強い光を点し続けてきた瞳が今度こそ明らかな動揺を示した。
一度目はこの世に生を受けて、人魔戦争で死ぬまで。二度目はこの魔導器を受け入れた時からバクティオン神殿でシュヴァーンとしての死を迎えるまで。そして、今。
ただの人間として生を受けた割には、波乱万丈でお得な人生だったのかもしれない。だって、人生最後の局面でもう一度人形ではなく生きていく選択肢が与えられたのだから。
「これでも俺様、感謝してんのよ。それでね、何かしてあげたいなぁって思ったけどおっさんクレープ作ってあげる事くらいしか出来ないでしょ?そんなの、幾らでもして上げられるから。ちょっと別なこともね、考えたわけ」
「クレープのほうがいい」
「あららら。だから、クレープは幾らでも作ってあげるってば」
子どものような仕草で口を突き出したユーリの手を再び撫ぜて、レイヴンはその手に静かに口付ける。
抗う仕草は見られず、口付けて上目遣いに見上げた暗紫の瞳は凪いだようにこちらを見上げていた。
「…で、それが空となんの関係があるっていうんだよ」
短く嘆息して、掴まれていた手を少々乱暴にレイヴンの手のひらから外す。
「うん?俺様がきれいだなぁとか覚えておきたいなぁって思ったことをね。ユーリにも覚えていて欲しくって」
「それを礼とは言わねぇんじゃないのかよ?」
「じゃぁ、ユーリの中に俺様との思い出をひとつでも増やしてあげようっていうおっさんの心遣い?」
きゃ、とふざけ様とした瞬間、離れたはずのレイヴンの手首を青年の力強い手のひらが思いっきり掴んで己の方へ引っ張る。バランスが崩れる、そう思った瞬間ガチリ。と互いの歯がぶつかる衝撃と一緒に唇を奪われた。
「――――!」
むさぼるようなキスをされて、徐々になにが起こっているのか理解したレイヴンもユーリに翻弄されていた舌を躊躇いなく絡める。
青年の血色のいい唇を最後にぺろりと舐め上げて、離れれば暗紫の瞳が意地悪そうに笑った。
「思い出っていうのはこうして作んだよ、おっさん」
「青年、俺様なんだかおかされた気分…」
不自然な体勢のままレイヴンは、小さく嘆息して細身のくせに思いのほかしっかりとした胸へ頭を預ければ、規則正しい拍動の音が響いている。
生きている者の心地よさにレイヴンはそっと薄い瞼を閉じる。
「気色悪ぃなおっさん…それに、だな」
「空なんて一緒にでも見ねぇ限り忘れちまうだろうが」
だから、ちゃんと待ってろ。
ユーリの長い指がぐしゃり、と髪の毛に差し入れられてレイヴンは灰碧の瞳をゆるめて小さく笑った。